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東京地方裁判所 昭和40年(ワ)4949号 判決

目次

当事者の表示

主文

事実

第一 当事者の求める裁判

一 原告

二 被告

第二 原告の主張(請求原因および被告の主張に対する反論)

一 当事者の地位

二 本件の概要

三 被告の不法行為とその違憲・違法性(本件検定の違法性)

1 本件をめぐる全般的事情(教科書検定制度の実態とその問題性)

(一) 教科書検定制度の問題性

(二) 歴史的にみたわが国教育政策の問題性

(三) 「新日本史」に対する従来の検定経緯とその実態

(四) 諸外国の教科書制度

2 教科書検定制度のしくみ

(一) 検定制度の大綱について

(二) 検定の基準について

(三) 検定の手続について

3 教科書検定制度の違法性

4 検定の基準および手続の違法性

5 検定基準違反

四 損害の発生

五 国家賠償法の適用

第三 被告の認否および主張

一 当事者の地位

二 本件の概要

三 被告の不法行為とその違憲・違法性

1 本件をめぐる全般的事情

(一) 教科書検定制度の問題性

(二) 歴史的にみたわが国教育政策の問題性

(三) 「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態

(四) 諸外国の教科書制度

2 教科書検定制度のしくみ

(一) 検定の大綱について

(二) 検定の基準について

(三) 検定の手続について

3 教科書検定制度の違法性

4 検定の基準および手続の違法性

5 検定基準違反

四 損害の発生

五 国家賠償法の適用

第四 証拠

理由

第一 本件各検定処分とその経緯

一 原告の経歴とその地位

二 本件検定処分に至る経緯

三 教科書検定制度の沿革

1 終戦前の制度

2 戦後の制度

第二 現行教科書検定制度

一 教科書とは何か

二 教科書検定の権限

三 教科書検定の組織

1 文部大臣の補助機関

2 教科用図書検定調査審議会

四 検定基準

1 絶対条件

2 必要条件

五 教科書検定の手続と運営

1 検定の受理

2 審査

(一) 原稿調査

(二) 検定合否の判定

(三) 理由の告知

(四) 校正刷審査(いわゆる内閲本審査)

(五) 見本本審査

(六) 救済制度その他

3 発行・採択

第三 争点の判断(その一、総論)

一 教育の自由

1 教育を受ける権利と親の教育権

2 教師の教育の自由―教育基本法第一〇条の解釈

二 学問の自由

三 各国における教育の自由

1 ILO・ユネスコ勧告

2 OECD教育調査団の報告書

3 諸外国の教育法制

(一) イギリス

(二) フランス

(三) 西ドイツ

(四) アメリカ合衆国

四 表現の自由

五 適正手続の保障

六 法治主義

1 教科書検定制度の法的根拠

2 学習指導要領の拘束力

3 手続的保障

第四 争点の判断(その二、各論)

一 本件各教科書検定の経過

1 昭和三七年度検定

(一) 審査

(二) 理由告知

(三) 審査期間

2 昭和三八年度検定

(一) 審査

(二) 修正指示

(三) 審査期間

(四) その他

3 むすび

二 本件教科書検定における合否の判定

三 指摘箇所に対する当否の検討

1 昭和三七年度検定

2 昭和三八年度検定

第五 損害賠償義務

一 昭和三七年度検定

二 昭和三八年度検定

第六 結論

(別紙) 昭和三七年度検定におけるA・B意見の区分表

目録(一) 原告補佐人

同(二) 原告訴訟代理人

同(三) 被告訴訟代理人

同(四) 被告指定代理人

判決

原告

家永三郎

右輔佐人

石母田正

ほか一一名

(別紙目録(一)記載のとおり)

右訴訟代理人弁護士

森川金寿

ほか三二四名

(別紙目録(二)記載のとおり)

被告 国

右代表者法務大臣

中村梅吉

右訴訟代理人弁護士

村松俊夫

ほか四名

(別紙目録(三)記載のとおり)

右指定代理人

近藤浩武

ほか一二名

(別紙目録(四)記載のとおり)

右当事者間の損害賠償請求事件につき当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一  被告は原告に対し金一〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四〇年六月一九以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告の、その余を原告の各負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一原告

被告は、原告に対し金一、八七五、七五八円およびこれに対する昭和四〇年六月一九日より支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

二被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

との判決。

第二原告の主張(請求原因および被告の主張に対する反論)

一当事者の地位

原告は、昭和一二年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事し、昭和一六年以降新潟高等学校教授、昭和一九年以降東京高等師範学校教授を歴任し、昭和二四年学制改革に伴い、以後今日まで東京教育大学教授として、将来教員となるべき人々の歴史教育に当つてきたものである。その間、昭和二三年には「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞し、昭和二五年には論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得た。著書には、右のほかに「日本道徳思想史」、「日本近代思想史」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「歴史と現代」など日本史および歴史教育に関するもの約三〇冊がある。また、原告は、昭和二一年に戦後最初の国定の日本史教科書が纂編されるに当つて、文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」の編纂に従事し、昭和二七年以降は、三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆・改訂を行ない、高等学校における歴史教育にも尽力してきたものである。

被告国は、教育行政を所管する行政機関として文部大臣を置き、文部大臣は、国の教育行政を分担管理する主任の大臣として(国家行政組織法第五条)、文部省の所管事務(文部省設置法第五条参照)を統括し、職員の服務についてこれを統督する地位にあり(国家行政組織法第一〇条)、主任の行政事務について、法律もしくは政令を施行するため、または法律もしくは政令の特別の委任に基づいて、文部省令を発する権限を有し(同法第一二条第一項および第四項)、右の一般的権限のほか、学校教育法その他により、教科用図書の検定等の権限を有するものである(学校教育法第二一条、第四〇条、第五一条等)。

二本件の概要

昭和三五年、高等学校学習指導要領が全面的に改訂となり、教科書改訂の必要が生じたので、原告は、その執筆にかかる高等学校第三学年用日本史教科書「新日本史」五訂版原稿につき、昭和三七年八月一五日出版者たる株式会社三省堂(以下三省堂という。)を通じて検定申請を行なつたところ、文部大臣は、翌三八年四月に至り不合格処分を決定し、同月一二日文部省に出頭した原告および三省堂担当社員らに対し、初等中等教育局教科書調査官渡辺実、同村尾次郎、同貫達人の三名を介して、初等中等教育局長福田繁作成名義の同月一一日付不合格決定通知書を交付し、不合格の理由を告知した。不合格の実質的な理由は、のちに詳述するように、憲法・教育基本法はもとより文部自身が定めた学習指導要領にすら反するものであつたが、このため、右「新日本史」の昭和三九年度の出版は不可能となつた。

その後原告は、前記原稿に若干の修正を加えて、同三八年九月三〇日再び検定申請の手続をとつたところ、文部大臣は、同三九年三月に至つてようやく条件付合格の決定をなし、同月一九日文部省に出頭した原告および三省堂担当社員らに対して、初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上、前記教科書調査官渡辺実を介して、条件付合格となつた旨を伝達し、本文二八〇頁・史料二二頁の白表紙本につき約三〇〇項目に及ぶ合格条件を示して修正を要求し、さらに、三省堂担当社員に対しては同年四月一二日および同年四月二〇日の二回にわたり重ねて修正要求をした。

しかし、右修正要求に応じなければ、不合格となることが明白であり、このため「新日本史」の出版が不可能となつて同書がまつたく姿を消してしまうことは原告としても忍び難いところであり、企業体としての三省堂も多大の損失を被ることが明白であるので、三省堂および原告は、不本意がらも若干の修正に応ぜざるをえなかつた。しかしながら、右の修正要求は、後述のごとく、いずれも違法なものであつて、これにより原告は記述の自由を著しく制約されたものである。

三被告の不法行為とその違憲・違法性(本件検定の違法性)

1  本件をめぐる全般的事情(教科書検定制度の実態とその問題性)

(一) 教科書検定制度の問題性

学校教育法(昭和二二年法律第二六号)第二一条、第四〇条、第五一条が定める教科書検定制度は、義務教育、普通教育において使用される教科書の適正化を図るという、一見もつともな趣旨のもとに行なわれているが、しかし歴史的にみるならば、この制度は必ずしも純粋に教育的目的のために運用されたものではない。かえつてそれは、実際には、教育内容を権力的に統制するというきわめて危険な目的のためにしばしば利用されてきた。また、諸外国では、わが国のような教科書に対する中央官庁の事前審査の制度は必ずしも採用されていない。したがつて、教科書が義務教育ないし普通教育で使用される主たる教材という性格をもつからといつて、それだけで直ちにこれに対する国家の関与、とくに中央官庁の事前審査を当然視しあるいは必要視することは誤まりであり、危険なことでもある。

(二) 歴史的にみたわが国教育政策の問題性

戦前のわが国教育政策は、基本的には学校教育による国民の思想統制を目ざすものであり、教科書制度もまたこの目的のための最も有効な手段として利用されてきた。

このことは、わが国における教科書検定制度あるいは教科書国定制度の発足の由来をみれば、きわめて明瞭である。

すなわち、明治の初頭においては、政府は、国民に海外の新知識・新思想を吸収させることに熱心で、国民の思想を統制すべき政治的必要性を意識していなかつた。このため、教科書も、自由に発行し、自由に使用することが認められていた。このため、諸外国の近代民主主義思想が、きわめて自由にわが国学校教育の内容に取り入れられることとなつた。

このような事情が急変したのは、明治一〇年代に入つて、自由民権運動が全国的に展開されるに至つてからのことである。すなわち、自由民権運動の全国的な高揚におどろいた政府は、これにきびしい弾圧を加えるとともに、明治一三年、通牒によつて、箕作麟祥訳「勧善訓蒙」、福沢諭吉著「通俗国家論」、「通俗民権論」、加藤弘之著「国体新論」等、近代民主主義思想を紹介した書物の大部分を、小学校教科書として妥当でない、小学校で教えるべき性質のものでないという理由で使用禁止とし、自由民権思想の抑圧に努めた。

翌一四年には、小学校教則綱領(同年文部省達第一二号)が定められ、そこに示された各教科の教授要旨によつて、各教科の教育内容が規制されることとなつた。同時に、教科書についても認可制がとられ、教科書の内容が右の教授要旨に適合するよう要求されるようになつた。教科書検定の制度は、こうした経緯を経て、明治一九年の小学校令の制定によつて確立されたものである。

当時の政府は、右のように自由民権運動を鎮圧するばかりでなく、さらに絶対主義的天皇制の確立を図る必要に迫られていたので、この目的のために、政府は、旧来の儒教思想を復活強化し、儒教道徳を利用しながら、天皇中心の国民意識を形成することを図つた。明治二三年には、この目的のために教育勅語が発布され、以後これがわが国教育の至上の原理とされるに至つた。

こうして、教科書また、当然に天皇制イデオロギーを国民に徹底させるための手段と目されるようになり明治二〇年代の終り頃から三〇年代にかけて、右のような観点から検定教科書の不十分さが指摘され、教科書の国定化を要望する声が支配層のなかから強く打出されるようになつた。例えば、日清戦争の直後である明治二九年には、貴族院が、「小学校修身科ノ教育タルヤ国家ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナルニ因り、其ノ教育ヲ施スニ必要ナル教科書ハ国費ヲ以テ完全ナルモノヲ編纂シ、其ノ教育ニ欠点ナキヲ期セザルベカラズ」という建議を行ない、明治三二年の衆議院における建議案においても、「徳育ノ要ハ善良ナル修身教科書ヲ編纂シ全国ノ就学児童ノ徳行ヲ同撥ノ下ニ教養シ、忠君愛国ノ精神ヲ啓発シ以テ国家ノ文明ヲ進メ富強ヲ致スニ在リ、現今各小学校往々修身教科書ヲ異ニシ授業ノ方針亦区々ニ渉ルノ弊アリ是レ実ニ徳育帰一ノ本旨ニ非ス」と主張された。

このような動きにのつて、政府は、明治三六年修身・国史・地理・国語の教科書を国定とした。国定化された教科が、修身・国史・地理・国語であつたこと、とりわけ修身教科書の国定化が早くから強く主張されてきたことは、国定制度の意図がどのようなものであるかを如実に物語つている。そして、国定制度が、その後の教育内容の極端な国家主義化・軍国主義化に役立つたことは衆知のとおりである。また、それによつて、歴史的真実がいかに隠蔽され、歪曲されたかも、われわれの記憶に新らしいところである。

戦後になつて、戦前の教育制度に対する反省に基づいて、教育制度の民主化が図られ、教科書についても国定制度が廃止されたが、検定制度が排除されるまでには至らなかつた。しかし、戦後の検定制度は、戦前のそれと異なり、ある程度民主化されたものとなつた。例えば、教科書に対する中央政府の統制を排除する趣旨で、検定権限は都道府県教育委員会におかれることとなつた(旧教育委員会法第五〇条。ただし、戦後の物資不足という特殊事情に対処するために、用紙割当制が廃止されるまでは、暫定的に文部大臣が検定を行なうこととされた。同法第八六条)。また、戦後の学習指導要領は、戦前の教授要目のように教育内容を画一的に拘束するものではなく、むしろ教師によい示唆を与えてその創意工夫を助長する性格のものにかわつた。したがつて、検定においても、教科書編著者の創意工夫が尊重され、教科書の内容に詳細に立入つてこれを規制することはなかつた。

ところが、その後、極東のスイスから反共防波堤へ占領政策の転換や、このためのわが国の再軍備政策その他の違憲政策の推進に伴い、教科書に対する中央官庁の介入は再び強められ、検定制度は再び右のような政治的観点からする思想検閲としての色彩を強くもつようになつた。

昭和二八年には、学校教育法・教育委員会法の一部が改正され、用紙割当制廃止後も教科書検定は恒久的に文部大臣が行なうものとされた。

昭和三〇年八月には、日本民主党が、「うれうべき教科書」と題するパンフレットを公刊して、宮原誠一(東京大学教育学部教授)、宗像誠也(東京大学教育学部教授)、周郷博(お茶の水女子大学教育学部教授)、日高六郎(東京大学文学部教授)、長田新(広島大学教育学部教授)などわが国有数の学者の定評のある社会科教科書を「偏向」した「赤い教科書」であると非難し、その直後の同年九月には、文部省は検定を「厳重にする」ことを理由に、検定審議会委員のいれかえを行なつた。そして、実際にも、この時以降「偏向」というレッテルをはられて不合格になる教科書が多くなつた。

昭和三一年には、文部大臣の検定権・検定基準立法権を恒久化するとともに、検定に合格する見込がないと認められる図書に対する検定の門前払い、教科書出版業者の登録拒否、その事業場への立入検査などの権限を文部大臣に与えること等を内容とする教科書法案が国会に提出された。同法案は、教育の国家統制を図るものとして、学者・教員その他の世論の強い批判を浴びて廃案となつたが、文部省は、それにもかかわらず同法案の重要な内容をなしていた教科書調査官制度を同年秋から発足させ、従来からあつた教科書調査員(非常勤)に加えて、常勤の文部省職員を調査官として教科書の内容審査に当らせることとし、検定強化の態勢をととのえた。

次いで、昭和三三年には学校教育法の一部改正によつて学習指導要領に法的拘束力が賦与され、同年の小・中学校学習指導要領の改訂、昭和三五年の高等学校学習指導要領の改訂などの事情と相まつて、検定は年を遂うごとに強化され、歴史、政治、経済、社会機構に関する記述は、著しく制約されるようになつた。このため上原専禄、宗像誠也、長洲一二、日高六郎などのわが国有数の専門学者が教科書の執筆を断念し、あるいは編著者からパージされるというという事態まで生じている。

以上によつて、教科書検定制度は、教育内容の統制、ひいては国民の思想統制という政治的意図に実際に利用されてきたし、あるいは、教科書の内容に対する思想審査にわたる危険性を常に内包する制度であることが明白である。

(三) 「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態

原告は、昭和二二年四月に一般用市販図書として「新日本史」を公刊し、同二四年三月には改訂版を発行していたが、三省堂から高等学校用日本史教科書の執筆を依頼され、右「新日本史」を台本にして、戦後の歴史学界における研究の成果と原告自身の研究の結果とに基づき全面的に改訂増補を加えて右教科書の原稿を完成し、同二七年春検定の申請手続をとつたところ、一旦は不合格となつた。その理由としては、大逆事件の記述のあることが好ましくないこと、日露戦争が国民によつて支持された戦争であることを明らかにしていないことなどが示されていたが、原告が右不合格原稿に何らの訂正を加えずに再申請したところ合格し、「新日本史」として昭和二八年度から教科書として用いられた。

その後、三省堂の依頼により右「新日本史」初版に全面的な添削を加え、同三〇年あらためて改訂原稿の検定申請をしたところ、二一六項にわたつて修正することを条件として合格となり、その後二回にわたつて修正を要求されたが、修正に応じうる点は修正し、承服できない点については修正を拒否した。その例をあげると次のとおりである。

(1) 「この二院(貴族院と枢密院)は後々まで貴族・官僚の根城として民主主義の発達をくい止める役目をつとめたのである」という記述について、「妥当でない。これらがあつたために、政党の横暴を防いだのではないか」という削除要求を受けたが拒否した。

(2) 「しかし、こうした一連の政策(アメリカへの全面協力、破防法制定、再軍備推進、アメリカとの軍事協力)は必ずしも国民のすべてによつて支持されてきたのではない」という記述について、全面的な削除を求められたが拒否した。

(3) 「日本軍は北京・南京・漢口・広東などを次々と占領し、中国全土に戦線を広げた」という記述について、「『中国全土に戦線が広がつた』と訂正せよ」と要求されたが、これを拒否した。

このように、抵抗してようやく検定に合格し、昭和三一年度から「新日本史」再訂版が発行された。

昭和三〇年の高等学校社会科学習指導要領の改訂に伴つて、「新日本史」三訂版の検定申請を、同三一年一一月、同三二年五月の再度にわたつて行ない、同三〇年度と同様の過程を経てようやく合格し、同三四年から三訂版が、また同三七年から四訂版が発行された。

(四) 諸外国の教科書制度

わが国のように検定制度をとつている国は、アメリカの一部の州、スエーデン、西ドイツ、タイ、台湾などであまり多くはない。しかも、例えば西ドイツでは検定はすべて州の文部省が行ない、連邦国家は何ら関与していないといつたふうに、必ずしも中央官庁の検定ではないのである。

ノルウェー、ベルギー、アメリカの一部では、認定制度をとつている。認定制度は、わが国の明治の検定以前の状態で、民間で自由に著作し発行したものを公共機関で審査し認可するというものである。

また、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、デンマーク、アメリカの一部では、ほとんど自由発行、自由採択にまかされている。フランスの場合は、認定制度がとられているが、しかし認定には、各県の大学区視学官を議長として、実際の教育者が当つており、国家の支配はまつたくうけていない。とくに、イギリス、オランダ、イタリアは、完全な発行、自由採択の制度がとられている。

以上の諸外国の教科書政策を通じてみても、普通教育で使用されるものだからというだけで、教科書に対する中央官庁の事前審査が自明のこととされているわけでは決してないのである。

2教科書検定制度のしくみ

本件昭和三八年以降の教科書検定については、概ね次のごとき法的しくみとなつている。すなわち、

(一) 検定制度の大綱について

「高等学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書……を使用しなければならない」(学校教育法第五一条、第二一条第一項)とあるのをうけて、文部省令で「教科用図書検定規則」(昭和二三年四月三〇日同省令第四号)が定められ、「(教科用)図書の著作者又は発行者は、その図書の検定を文部大臣に申請することができる。」(同規則第三条)、「図書の検定は教科用図書検定調査審議会の答申にもとづいて、文部大臣がこれを行う。」(第二条)、「図書の検定は、原稿審査、校正刷審査及び見本本審査の三段階を経て完了する。」(第四条)こととされている。

因みに、制定当初の学校教育法第二一条第一項、第一〇六条、教育委員会法(昭和二三年法律第一七〇号、昭和三一年九月三〇日廃止、以下「旧教育委員会法」という。)第五〇条等では、公立学校における教科書の検定権を都道府県教委におくことを建前とし、当時の物資不足の状況下で用紙割当制が存する「当分の間」だけ検定権をもつ「監督庁」を文部大臣としていたが(旧教育委員会法第八六条)、昭和二八年八月の同法改正により右記のごとく文部大臣の検定権が恒久化されたのである。

(二) 検定の基準について

検定の基準については、右検定規則第一条第一項が、「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法(昭和二二年法律第二五号)及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする」とあるのをうけて、文部省初等中等教育局が文部省設置法(昭和二四年法律第一四六号)第八条第一三号の二に基づき定めた「教科用図書検定基準」(昭和三三年一二月一二日文部省告示第八六号)が、各教科に共通する検定合格の「絶対条件」と、各教科ごとの「必要条件」について詳細な定めを設けている。

因みに、昭和二四年当時の「検定基準」では、絶対条件として、

「(1) わが国の教育の目的と一致しているか。

教育基本法及び学校教育法の目的と一致し、これに反するものはないか。たとえば、平和の精神、真理と主義の尊重、個人の価値の尊重、勤労と責任の重視、自主的精神の養成などの教育目的と一致し、これに反するものはないか。

(2) 立場は公正であるか。

政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派にかたよつた思想・題材をとり、又、これによつて、その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難しているようなところはないか。

(3) それぞれの教科の指導目標と一致しているか。」

という三項目があげられていたが、その後数次の改訂を経て昭和三三年の前記「検定基準」では、

「(1) (教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に定める当該学校の目的と一致しており、これに反するものはないか。

(2) (教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。

(3) (立場の公正)……前掲に同じ……」

と改められており、各第一項を比較すれば、改訂の意図するところがおのずから明らかである。

(三) 検定の手続について

本件当時の検定の手続については、まず著作者または発行者から教科用図書の原稿が提出されると、文部大臣はこれを前記審議会に諮問し、文部省教科書調査官の調査に付するとともに、審議会の調査員に送付してその調査に当らせる(審議会は文部省設置法第二七条およびこれをうけて昭和二五年五月に制定された教科用図書検定調査審議会令(昭和二五年政令第一四〇号)に基づき設置されたもので、その委員八〇名は「教育職員及び政治、教育、学術、文化、経済、労働等の各界における学識経験のある者のうちから、文部大臣が任命」したものであるが、その実際の顔ぶれをみるとその人選が果して公正に行なわれたかについては問題が多いといわれている。)。調査官は、右設置法施行規則(昭和二八年文部省令第二号)第五条の二に基づき、「上司の命を受け、検定申請のあつた教科用図書……の調査に当る」(第二項)ことを職員として、初等中等教育局教科書課に配置され(第一項)、その数は四〇名であり各教科を分担している。調査員は、「学識経験のある者のうちから審議会の意見を聞いて、文部大臣が任命、した者で(審議会令)、実際には学識経験者および全国の小・中・高校教員から選ばれた者よりなり(総数教六〇〇名に上る。)、三者は並行して原稿審査にあたり、調査官は原稿ごとに二名以上、調査員は三名で調査を行なうが、調査が一応終ると(もつとも、調査員の調査にはふつう三週間程度の余裕しか与えられていない。)、審議会は教科別の部会を開き、調査官と三名の調査員がそれぞれ作成した計四通の調査意見書および評定書を参考として審議を行ない、合否を決定する。

その結果、不合格と決定したものについてはその理由を、合格と決定したものについては修正の条件があればそれに関する意見(A意見とB意見とがあり、文部省当局の説明によれば、前者はそれに応じなければ検定に合格しないという強い性格のものであり、後者はたんなる希望意見であるとされているが、実際には、必ずしもそのように運用されていない。)を付して、審議会は文部大臣に答申を行ない、これをうけて文部大臣(文部省初等中等教育局教科書課)はほとんどそのまま合否を決定し、申請者に決定の内容およびA・B意見を通知する。不合格処分を行なうに当つて、出版者・編著者の意見を事前に聴取する等の手続はまつたく設けられていない。

以上が原稿審査の段階であつて、これに合格した申請者は、示された修正意見に基づいて原稿に修正を加え、右教科書課における修正の可否の検査を受け(校正刷審査)、これをパスすると、表紙奥付等をつけて完全な体裁をととのえた見本本につき造本技術的な審査を受け(見本審査)、これを通つて、はじめて検定合格を与えられることとなるわけである。

因みに、教科書調査官は昭和三一年一一月文部省設置法施行規則(同省令)の一部改正(同年文部省令第二六号)により新設されたもので、同年の第二四国会にこの制度をもりこんで提案された教科書法案が「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案の強行可決をめぐる混乱で廃案となつたため、不当にも省令改正という行政措置によつて実現されたものである。この時以降、それまで教育専門家や現場教員によつて行なわれてきた教科書検定に、行政官僚が直接関与することとなつた。

3教科書検定制度の違法性

教科書の著述・編集・刊行は、いうまでもなく憲法上の言論・出版の自由の保障をうけるべきものであるが、現在実施されている教科書検定制度は、前述のごとき検定基準およびその運営の実態から窺えるように、教科書の内容に対する思想審査を行ない、そのいかんによつて教科書としての発行と学校における使用とを禁止するもの(学校教育法第二一条、第四〇条、第五一条)であつて、明らかに憲法第二一条第二項の禁止する検閲に該当するものである。

言論・出版の自由をはじめとして国民の基本的人権は公共の福祉による制約をまぬがれないものものと一般に考えられているが、憲法第二一条第二項が、同条第一項の言論・表現の自由の保障に加えて、とくに検閲禁止を定めたのは、言論・表現の自由にあつては、国家権力による事前抑制から自由であることが、その性質上とくに強く要請されるからにほかならない。したがつて、言論・表現の自由に対する事前抑制は、公共の福祉を理由としても原則として許されないものといわなければならない。のみならず、検定制度の必要なゆえんとしてあげられている普通教育の特質に基づく小・中・高校教育の画一化の要請なるものは、むしろ憲法・教育基本法が定める教育の民主的諸原則に反するものである。

すなわち、現行憲法は、国民に思想・信条・言論・表現・学問等の諸自由を保障し、これによつて国民は、国家権力によつて介入や制約をうけることなく、自由に学問研究の成果を享受し、さまざまな思想や意見に触れ、政治的・社会的現実や歴史的真実を出版物・新聞・ラジオ・テレビその他を通じて、知り、聞き、読む機会を保障されているのである。それがわが国の憲法秩序である。

したがつて、わが国の教育制度は基本的にこの憲法秩序に適合するものでなければならないし、現に、教育基本法、とくにその前文、第一条、第二条および第一〇条は憲法の右の要請に応えて教育法制の基本原理を定めている。ことに、教育基本法第一〇条は、戦前のわが国教育制度が、教育を通じて国民の思想統制を図り、この目的のために教育を画一化し、教育を歪曲したことに対する反省に基づいて、教育を権力的に統制し画一化することを教育に対する「不当な支配」として禁止し(第一項)、教育行政が教育の内容に権力的に介入することなく、その外的諸条件の整備に当るよう、その任務と限界とを定めている(第二項)。もつとも、今日の小・中学校教育は義務教育として行なわれるものであり、高等学校教育も普通教育の一環として行なわれるものである以上、その教育内容について国や地方公共団体が何らの関与をなしえないということはできないであろう。しかし、国や地方公共団体の教育内容に対する関与は、憲法・教育基本法の右のごとき要請からして、真に必要とされるごとく大綱的な基準の設定にとどまるべきで(兼子仁・教育法一五一〜二頁、昭和三九年三月一六日福岡地裁小倉支部判決、同年五月一三日福岡高裁判決同旨)、それ以外は、非権力的な指導助言の作用によるべきである。現在のわが国教育法規が、指導助言という非権力的作用をふんだんに取り入れられているのも(文部省設置法第五条第一八、第一九、第二〇、第二二号、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第一九条第三、第四項参照)この趣旨に基づくものにほかならず、この作用こそは、人間の内面的人格、思想の形成を目的とし、高度の専門性を有する教育という作用に最もふさわしい方法なのである。

以上のごとき戦後のわが国の民主的な教育思想および教育法制の基本原則からすれば、教育内容の非画一化(権力による画一化の排斥)こそは、教育的価値として積極的に擁護され、尊重されなければならないものである。このような観点からいえば、教科書の内容について事前審査を行ない、あるいはごく大綱的な基準の範囲をこえて教育内容の画一化を図るために検定を行なうことは、教育法制を貫ぬく基本原理にも反するものであり、教科書の自由発行制度こそが、最もよくこれに適合した制度であるということができるのである。

現在のわが国の検定制度およびその実際の運用は、前述したところで明らかなように、一定の政治的イデオロギーに基づいて、今日のわが国における各分野の学問研究の成果を自由に教科書にもりこむことを妨げ、学問上の真理や定説を歪め、歴史的・政治的・社会的現実を隠蔽し、子供(国民)が学校教育を通じて、これらのものを学びとる機会を奪おうとしている。

また、調査官らのきわめて恣意的な判断によつて、教科書執筆者の記述の自由や創意・工夫が制約され、教科書の内容が歪められ、正しい知識を学びとるべき子供の学習の権利が損われている。しかも、この弊害は、社会科だけではなく、数学、物理、英語などの学習の全領域にわたつて現われている。

このような検定制度は、憲法第二一条、教育基本法第一〇条に違反するばかりでなく、わが国憲法の基本的な精神、憲法秩序の全体に反するものといわなければならない。

4検定の基準および手続の違法性

かりに、何らかの型態の検定制度が必要であるとしても、濫用されることのないように、明確な限界が付され、このための制度的、手続的保障が設けられていなければならない。検定制度が前述のごとき危険性を内包し、現に弊害を生み出していることにかんがみれば、このことは当然であろう。

このような検定制度に対する限界づけの要請は、第一に検定制度が言論・出版の自由にかかわりをもつことに基づくものである。すなわち、検定制度は、検定が、表現の自由をいたずらに侵すことのないように、確実な制度的・手続的保障を備えていなければならない。そうでなければ、その検定制度は憲法第二一条のみならず憲法第一三条、第三一条にも反することになろう。けだし、憲法第一三条、第三一条の規定は、憲法第二一条等の権利自由の保障条項と相まつて言論・出版の自由をはじめとする国民の権利・自由が実体的にも、手続的にも保障されるべきことを要請する趣旨のものだからである(昭和三八年九月一八日東京地裁判決タクシー業免許申請却下事件、昭和三八年一二月二五日東京地裁判決乗合バス事業免許申請事件同旨)。

第二に検定制度は、教育行政が教育内容を権力的に統制し画一化してはならないとする教育基本法第一〇条の観点から、明確な限界を課せられなければならない。

この意味で検定制度は、大綱的基準の設定という教育行政の基本的限界内にとどまるものでなければならず、そのための制度的・手続的保障を具備していなければならない。

以下、右の二つの観点から、現行検定制度の違法性を指摘したい。

(一) 検定基準は、一面ではきわめて包括的な基準を含むと同時に、他面ではきわめて詳細な基準を含んでおり、かつ、例えば「特定の政党や特定の宗派にかたよつた題材をとり、またこれによつてその主義や信条を宣伝したり、あるいは非難したりしているようなところはないか」(絶対条件3)というように、その文言はきわめて抽象的・曖昧で、みる人の主観(世界観・主義・信条・教育観)によつてどのようにもかわりうるようなものとなつている。このため現行基準によれば、教科書の内容に全面的にかつ詳細に立入つて審査することができ、しかも調査官らの恣意的判断を防止することはきわめて困難である。

(二) 検定基準の一つとして、学習指導要領があげられているが、学習指導要領は、教育内容につき相当詳細に規制したものであつて、明らかに大綱的基準の範囲を逸脱しているので、これに法的拘束力を認めることはできない(兼子仁・教育法一七七〜八頁、昭和三九年三月一六日福岡地裁小倉支部判決、同年五月一三日福岡高裁判決同旨)。それは指導助言以上の性格をもちうるものではない。そうだとすれば、学習指導要領を検定基準の一つとして、教科書の内容がこれに適合するように要求し、これに反すると認める場合には修正削除を指示しあるいは不合格処分を行なうことは、許されないものといわなければならない。

(三) また、教育基本法に適合しているか、内容の選択程度が適正であるか、内容が正確であるか等の基準についていえば、これらの事項は、いわば教育的・学問的な判断ないし裁量にまつべきものであり、また、教科書執筆者の歴史観・見解・教育観などによつて判断がわかれることがありうるものであるから、行政権が、その判断をいわば一義的に行なうことは適当ではない。例えば、いくつかの学説がある場合に、文部大臣・検定審議会・調査官が、適正・正確と判断するもの以外を排斥し、あるいは、学問上真理とされている説や事実を文部大臣らがそれとは別の判断見解に基づいて、排斥することは妥当ではない。少なくとも、これらの事項について、行政機関の自由な裁量を認みるべきものではない。行政機関による審査は、むしろ、明白な誤記・誤植・色刷の不鮮明、学問的にも確定されている事実や法則に明白に反する記述等、明白で異論の余地のない欠陥の是正のみを目的とすべきである。そしていくつかの学説・史観等のいずれが正しいか、どのような内容の選択や事実の評価が最もよく憲法の平和主義・民主主義の精神に適合するか、どの程度のものが最もよく当該年度の生徒の発達段階に適合するか等の事項は、学問的討議、学問研究自体の発展、執筆者の創意や、配慮、教科書採択(選択)の際の教師の教育的配慮(裁量)に基づく判断、さらには教師の教育研究などにまつべきである。

(四) 教科書検定は、検定審議会の答申は基づいて行なわれることとなつているが、その委員は文部大臣が自由に任命することがにでき、その人選が公正に行なわれるべき保障は存しない。また、右審議会の審議・合否の決定に先立つて調査員・調査官の審査が行なわれるが、調査員に至つてはその氏名さえも秘匿され、これらの者の調査意見書、評定結果や右審議会の審査はすべて非公開であつてすべてが秘密裡に行なわれる建前となつている。不合格とされた場合も、その理由は二行程度のきわめて簡単で抽象的なものしか示されない。修正削除の箇所やその理由(条件付合格処分の場合の条件)も調査官が口頭で伝えるのみで、文書によつていない。合否が決定される前に、出版者や編著者の意見を述べる機会は保障されておらず、不当な修正削除の指示・要求に対し不服を申立てるための救済制度が保障されていない。検定が公正に行なわれるための制度的・手続保障は皆無といつてよい。

5検定基準違反

本件における不合格決定の理由および条件付合格の修正要求の内容は、憲法・教育基本法はもとより文部省自身の定めた検定基準にすら反している。すなわち、文部省の定めた教科用図書検定基準には、絶対条件として教育基本法・学校教育法および学習指導要領等をあげているが、次に例示するとおり、本件における不合格の理由および条件付合格の修正要求の内容は、文部省の作成した学習指導要領にすら相反するものである。

(一) 昭和三八年九月三〇日に検定申請をした原稿(以下「三八年申請白表紙本」という。)三三頁脚注に「『古事記』も『日本書記』も『神代(かみよ)』の物語から始まつている。『神代』の物語はもちろんのこと、神武(じんむ)天皇以後数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統合するいわれを正当化するために構想された物語であるが、その中には民間で語り伝えられた神話・伝説なども織りこまれており、古代の思想・芸術などを今日に伝える貴重な史料である」という記述があるのに対し、右傍線部分につき、強要されて削除を余儀なくされた。この命題は、津田左右吉博士の著名な研究によつて明確に立証されており、今日日本史を専攻するほとんどすべての学者が肯定しているところであり、かつ、右脚注の本文は、「七一二年(和銅五年)には『古事記(こじき)』が、七二〇年(養老四年)には『日本書記(にほんしょき)』が完成した。このような歴史書の編纂(へんさん)が行なわれたのも、律令政府の政治的自覚の高まりを示すものであろう。また、このころ、諸国に命じて地誌・伝説を集めた『風土記(ふどき)』をも作らせている。『古事記』は、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)(生没年不詳)に命じて誦み習わせた皇室の系譜と物語を太安万侶(おおのやすまろ)(?〜七二三)が書きしるしたものである。『日本書記』もまた天武天皇のとき着手され、舎人(とねり)親王(六七六〜七三五)を総裁とする編纂者によつて完成された」という記述であるから、右脚注とくに傍線部分を除くと、古事記・日本書紀についての記述が不正確になるだけでなく、古事記・日本書紀の記述をそのまま史実と誤解せしめる記述になり、右削除要求は、史実に基づかない非科学的な歴史の学習を期待しているものというほかはない。これは、学習指導要領の「史実を実証的・科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う」目標にも著しく反するものである。

(二) 三八年申請白表紙本一九六頁写真「大日本帝国憲法」の説明の「官報号外の表紙、金色の菊の欽定憲法の威厳を示している」という記述のうち右傍線を付した部分の削除を余儀なくされ、さらに、同白表紙本一九七頁の「これが大日本帝国憲法であるが、憲法は公布の日まで秘密にされ」という記述について、「秘密にするのがふつうで特別のことではない」として削除を求められたため、「これが大日本帝国憲法であつて」とし、脚注に「起草・審議の過程においては、草案が公表されなかつたので国民は公布の日まで憲法の内容を知ることができなかつた」と加えて修正せざるをえなかつた。これらの修正・削除要求は、学習指導要領の「時代の性格を明らかにし、その歴史的意義を考察させる」、「現代社会の歴史的背景をはあくさせ、民主的な社会の発展に寄与する態度とそれに必要な能力を養う」という目標に著しく反するものである。

(三) 三八年申請白表紙本二三八頁の人文科学の発達の項の「しかしながら、明治憲法のもとでは学問の自由が保障されておらず、人文科学に対しては強い政治的制約が加えられ、研究の妨げられることが少なくなく、学問上の著述のために災いにあつた学者も一、二にとどまらなかつた」という記述に対し、「研究を妨げられなかつた学者もいる。審議会(教科用図書検定調査審議会)の人々は、戦争中でも研究の不自由はなかつたという人もいる」ということを理由に修正を求められ、結局傍線部分を削除し、傍点部分を「大幅な自由は」と改めざるをえないかつた。この修正要求は、明治憲法体制のもとでは人文科学とくに社会科学の研究について学問の自由が極度に制限されていたという重要な史実の学習を妨げるものであり、学習指導要領の「日本の文化が、政治や社会・経済の動きとどのような関連をもちながら形成され、発展してきたかについて考察させ」るという目標に反するものである。

(四) 三八年申請白表紙本二五八頁の戦争体制の強化の項の「……国民は戦争について真相を十分に知ることができず、無謀な戦争に協力するよりほかない状態に置かれた」という記述のうち、「無謀な」を削除するよう強要されて削除した。

また、昭和三七年八月一三日に検定申請をした原稿の不合格理由として、「二四二頁に『本土空襲』『原子爆弾とそのために焼野原となつた広島』という戦争の暗い写真が掲げられ、二四四頁では『出陣する学徒』『工場で働く女子生徒』のように戦争に一生懸命協力している明るい面が出ているが、二四五頁ではまた『戦争の惨禍』のような写真(街頭で募金する義手の白衣の勇士)があつて全体として暗すぎる」という点があげられており、昭和三八年九月三〇日再申請した白表紙本には『戦争の惨禍』の写真は挿図として掲げなかつた。これらは、学習指導要領に「戦争のもたらす人類の不幸や損失について深く考えさせる」とあるのとまつたく相反する。

(五) 三八年申請白表紙本二七四頁の「安全保障条約によつて、アメリカ軍は日本に駐留を続け、全国各地に多くの基地を保有した」という記述の「基地」について、「条約では『施設』といつている」として修正を求められ、やむなく「施設(一般には基地と言つている)」と改めたが、条約にいう合衆国軍隊の使用する「施設および区域」を一般に米軍基地というのであつて、右修正要求は、憲法の平和主義の原則に反する日本の現状を明確にすることを妨げるもので、ことさらに不正確な表現を用いることを強いた点は文部省自から定めた前記教科用図書検定基準にも反するものである。

四損害の発生

文部大臣の前記昭和三八年四月一一日の違法な不合格処分および昭和三九年三月一八日の違法な条件付合格処分ならびにこれに基づいて同月一九日以降同年四月二〇日までの間に前後三回にわたつて行なわれた違法な条件(修正削除)の指示により、原告は、表現の自由を侵害され、あるいは著しく制約され、多大の精神的苦痛を被つた。昭和三八年度の場合、結果的には、原告は修正削除に応じ、検定合格となつたが、しかし、なお次の理由により、原告はその表現の自由を侵害され損害をうけたものといわなければならない。

すなわち、原告は、わが国の民主教育の発展をねがつて、日本史の専門的研究者としての立場から、昭和二七年以来、高校用歴史教科書の執筆・改訂に従事してきたものであつて、検定制度が反動化し、記述の自由が著しく制約されるという困難な条件のもとでも、執筆を断念することなく、可能なかぎり憲法と教育基本法の精神に適合した歴史教科書の出版を継続させるために尽力してきたものである。原告が、昭和三七年度および三八年度の検定の際に筆を折るという態度をとらなかつたのは、このような原告の立場に基づくものである。けだし、原告が執筆を断念し、将来にわたつて歴史教科書の著作の自由を放棄することは、文部省の望むところであつたろう。

もともと国民は、教科書の執筆・出版の場合にも、憲法の表現の自由の保障をうけ、行政官庁の不当違法な制約をうけることなく、自由に教科書の執筆・出版をなしうる地位にあるのであつて、結果的に検定に合格したか否かにかかわらず、文部大臣ないし調査官の修正削除の指示という制約をうけ、これに応じないかぎり、検定不合格処分をうけ、あるいは筆を折るほかないという状態に執筆者がおかれていること自体、表現の自由に対する侵害であるといわなければならない。かくして、原告は、右の精神的苦痛に対する損害賠償として、被告に対し、少なくとも金一〇〇万円を請求する権利を有する。

次に、原告は、昭和三七年度の検定不合格処分により、昭和三九年度用として発行予定の新(五)訂版「新日本史」の発行が不能となつた。右五訂版は、もし本件検定不合格処分が行なわれなければ当然予定どおり発行されていたはずであつて、これによつて原告は、印税による利益を受けることができたはずである。したがつて、右違法不合格処分と昭和三九年度新(五)訂版「新日本史」の発行できなかつたこととの間には相当因果関係があるから、昭和三九年度に右新(五)訂版が発行されたであろう部数と、その印税によつて受ける利益を失つたので、被告はこの失つた印税相当額を損害賠償として原告に支払う義務があるといわなければならない。

原告が昭和三九年度版の発行によつて得たであろう利益の額は、昭和三九年度に発行されるはずであつた発行部数に定価を乗じ、そこから原告が受けるべき印税の額から税金を控除した額である。

そこで、発行部数の確定であるが、三、四訂版を例にとれば、昭和三四年度六一、二七二部、三五年度四一、三二〇部、三六年度三四、六二七部、三七年度三六、六五二部(三、四訂版合わせて)、三八年度二九、六〇六部となつており、三九年度は四訂版が一部発行され、その部数は一三、五九二部であるが、昭和三八年度から日本史は必修科目となつたため、全生徒が受講しなければならなくなつた事情があり、また、改訂版は初年度にとくに売行が多いのが常であり、かつ高校進学数も増加している事情を考慮すると、三九年度分の発行部数は、昭和四〇年度に発行された新(五)訂版の発行部数を基準として計算するのが合理的である。なお、昭和三九年度は、右のように旧版(四訂版)が一部発行されているから、右発行部数は控除しなければならない。

そこで右数字をみると、昭和四〇年度にはじめて発行された新(五)訂版は、八七、五七六部であり、昭和三九年度に発行された四訂版の発行部数は一三、五九二部であるから差引七三、九八四部となる。また、新(五)訂版の一部の価格は昭和四〇年、四一年版とも金一六〇円(四訂版は金一九九円であり、昭和三九年版発行予定価格も金一六〇円である。また、印税率は、すべて七%である。ただ著者に対しては、この印税とは別に教師用指導書の発行部数に応じて一率金一三〇、〇〇〇円が支払われることになつているのでこれが加算される。

これに基づいて計算すれば、次のとおりとなる。

(1)  73,984×160=11,837,440

(2)  11,837,440×0.07=828,620.8

(3)  828,620.8−82,862=745,758.8

(注) 税金は10%源泉

(4)  745,758+130,000=875,758

右(1)ないし(4)の計算の結果は金八七五、七五八円となり、右額が昭和三九年度新(五)訂版の発行により原告が受けうる利益である。

以上のとおり、本件違法処分によつて昭和三九年度中における原告の得べかりし利益の喪失は、金八七五、七五八円に相当する。

したがつて、本件不合格処分および条件付合格処分によつて原告が被つた損害額は以上の合計額金一、八七五、七五八円である。

五国家賠償法の適用

文部大臣、事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局教科書課長諸沢正道、同局審議官妹尾芳喜および同課教科書調査官渡辺実らは、いずれも国から給与を受け、かつ、国の選任・監督する公務員であるが、教科用図書検定に関する権限を行使するに際し、原告に対し故意または過失により前述のように違法な不合格処分および前記白表紙本に対する修正・削除の要求をなし、よつて、前述の損害を与えたものであるから、国は、国家賠償法第一条により右損害の賠償をなす責を負うものである。

六以上のほか、原告の主張は、別紙(一)ないし(一四)のとおりである。

第三被告の認否および主張

一当事者の地位

原告が昭和一二年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事してきたこと、同一六年以降新潟高等学校教授、同一九年以降東京高等師範学校教授、同二四年以降東京教育大学教授を歴任していること、同二三年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞したこと、同二五年に論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、列記されたような著述があること、戦後に「くにのあゆみ」の編纂に従事したこと、以上のことは認める。しかし、原告に関するその他の事実は知らない。被告国に関する記述はすべて認める。

二本件の概要

昭和三五年に高等学校学習指導要領が全国的に改訂されたこと、同三七年八月一五日に三省堂から「新日本史」の検定申請があつたこと、同三八年四月に文部大臣がこれに対し不合格の決定をしたこと、同月一二日文部省において原告および三省堂担当員らに対し、初等中等教育局長福田繁作成名義の同月一一日付不合格決定通知書を交付したこと、その際初等中等教育局教科書課教科書調査官渡辺実より不合格の理由を告知し、村尾次郎、貫達人両教科書調査官が同席したこと、同三八年九月三〇日に前年度の申請原稿に修正を加えた原稿について三省堂より再び検定申請があつたこと、同三九年三月に文部大臣が条件付合格の決定をしたこと、同月一九日に文部省において原告および三省堂担当社員らに対して初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上渡辺教科書調査官より条件付合格になつた旨を伝達し、さらに、合格条件および参考意見併せて約三〇〇項目を伝えたこと、四月二〇日に三省堂担当社員に対し妹尾審議官および渡辺教科書調査官より若干の参考意見を伝えたこと、以上のことは認める。

しかし、その余の事実はすべて争う。すなわち、「新日本史」原稿の検定を申請したのは三省堂であつて、原告ではない。昭和三八年四月の不合格の決定は、申請原稿が正確性および内容の選択において著しい欠陥があつて、検定の基準に合致しなかつたためであり、この決定は憲法、教育基本法、学習指導要領に反するものではない、同三九年三月一九日に条件付合格の決定を通知した際、合格条件(後述のA意見参照)七三項目と参考意見(後述のB意見参照)二一七項目を伝えたにとどまり、修正要求を行なつたものではない。同年四月二〇日に若干の参考意見を伝えた場合についても同じである。同年四月一二日に意見を伝えたことはない。

三被告の不法行為とその違憲・違法性

1本件をめぐる全般的事情

(一) 教科書検定制度の問題性

原告の主張は争う。

(二) 歴史的にみたわが国教育政策の問題性

明治初年に教科書について特段の制度が定められていなかつたこと、同一三年に通牒により掲記の書籍を小学校教科書として不適当であるので採用すべきではないとしたこと、同一四年に小学校教則綱領が定められ、これによつて各教科の教育内容が規制されるようになつたこと、同一九年に小学校令の制定によつて教科書検定制度が創設されたこと、同二三年に教育勅語が発布されたこと、同二九年に貴族院が、同三二年に衆議院が各々国定制度について建議を行なつたこと、同三六年に小学校令が改正され、小学校用教科書について国定制度が始められたこと、戦後に検定制度が採用され、検定権限は都道府県教育委員会に付与されたが、用紙割当制が廃止されるまでは文部大臣が検定を行なうこととされたこと、昭和二八年は学校教育法、教育委員会法の一部が改正され、用紙割当制廃止後も教科書検定は文部大臣が行なうものとされたこと、同三一年に教科書法案が国会に提出されたが審議未了となつたこと、同年一〇月に教科書調査官制度が発足したこと、同三三年に小学校、中学校の学習指導要領が、同三五年に高等学校の学習指導要領が各々改訂されたこと、以上のことは認める。その余の事実および主張は争う。

原告がわが国の教科書制度に関して述べるところは、一面的なみかたに偏しているところおよび誤つているところが多いので、以下主なる点を指摘する。

(1) わが国における明治以後の初等学校の教科書は、明治五年に発布された学制に基づき全国に設けられた小学校の教科書として発展していつたものである。当初は、教科書について特別の制度はなく、欧米の教科書等を翻訳したもの、従前の寺小屋の伝統に基づく往来物、藩校の伝統に基づく漢籍等が教科書として用いられていた。これは、当時はいわば学校教育制度の揺籃期であり、未だ統一的な教科書制度を明確に打ち出すに至らなかつたためであるとみるのが正鵠を得ており、原告の主張するようにとくに意図的に教科書の自由な発行、使用を認めたわけではなく、また、当時の政府が国民に海外の新知識、新思想を吸収させることに熱心で、教科書制度を設ける政治的必要性を意識していなかつたためとみるのは妥当ではない。ところが、明治一〇年代から二〇年代にかけて就学者も増加し、学年編成、学校制度も次度に整備されるに対応して、教科書の体裁、内容も近代教育を施すにふさわしいものに整備されることが当然要請されてきた。そのために認可、検定、国定の各制度が順次採られ、それにより教育水準の維持向上、児童、生徒の心身の発展段階に応じた教育内容の整備、改善が行なわれたのである。勿論、明治一〇年代から二〇年代にかけて、明治初年の文明開化、欧米心酔から脱して国風尊重が生じ、これが教科書制度の上にも影響して、そのような観点から教科書の内容が制約されたことは否めないが、さりとて、教科書制度が教科書の内容の整備改善の上に果した大きな役割は到底否定しえない。原告は、自由民権運動を鎮圧し、絶対主義的天皇制を確立するために教科書制度が採用された旨主張しているが、それはあまりにも一面的な見解であるといわなければならない。

(2) また、戦前の小学校における教科書国定制度採用の直接の動機となつたのは、明治三五年に起つた教科書疑獄事件であるが、原告はこれについてまつたく触れるところがない。それで国定制度が採用されるに至つた経緯を簡単に述べる。当時の検定制度においては、文部省検定済の多数の教科書のなかから、各府県ごとに教科用図書審査委員会の審査を経て採定されることになつていた。民間の出版社にとつては、自社発行の教科書が採択されるか否かは重大な問題であり、そこで決定権をもつ府県の審査委員を動かし、自社発行の教科書を採択させようとする運動が次第に激しくなり、出版者と審査委員との間の醜聞が絶えなかつた。そのため、文部省は、昭和三四年一月に小学校令施行規則を改正し、処罰規定を設け、刑に処せられた場合には関係教科書の審査採定を無効とし、その発行者の教科書は五年間採定を禁止することにした。それでも、贈収賄の醜聞は跡を絶たず、明治三五年には全国的に大規模な摘発検挙が行なわれた。これが有名な教科書疑獄事件である。その結果、検定制度に対する批判が高まつたばかりでなく、当時の主要な発行者は罰則の適用を受け、法令上大部分の教科書は使用できないこととなり、したがつて、検定制度はそのままでは維持することが事実上困難となつた。そこで、これを契機として政府はかねてから気運の高まつていた国定制度の実施へ進んだのである。なお、国定教科書を使用する教科も準備の整つた教科から順次及ぼされていつたものであつて、明治三七年から修身、国語、日本歴史、地理、同三八年から算術、図画、同四四年から理科の国定教科書が使用された。

(3) 昭和三一年に提案された教科書法案の主なる内容は、第一に検定の公正綿密を期するため、検定の機構および方法を整備改善すること(教科書検定審議会の新設、検定手続きの整備、明確化等)、第二に適正な採択方式を確立すること、第三に発行、供給の確実、円滑を期すること、第四に教科書の価格の適正を期することであつて、原告が引用しているようような事項は法案の中心となつている事項ではない。原告の主張は末梢的な事項をもつて全体を説明しようとするものであつて、法案の内容説明としては、はなはだ不適当である。

(4) 教科書調査官について、原告は、教科書法案の重要な内容をなしていたもので、同法案が廃案になつたにもかかわらず、発足させたとして非難しているようであるが、これはまつたく原告の誤解である。すなわち、教科書法案には教科書調査官に関することは全然規定がなく、教科書調査官制度の設置には同法案の制定を何ら必要としないのである。また、学習指導要領は、昭和三三年の改訂以前から法的拘束力があり、同年に学習指導要領と関連して学校教育法が改正されたこともない。最後に、教科書採択について認可制度がはじめられたのは、明治一六年であって、明治一四年ではない。以上の三点は、明らかに誤りである。

(三) 「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態

昭和二七年に「新日本史」について再度にわり検定申請があり、その結果第二回目に検定に合格となり、同二八年度から教科書として使用されたこと、同三〇年に「新日本史」初版について改訂の上検定申請があり、原稿審査において条件付合格となり、同三一年度から「新日本史」再訂版が発行されたこと、同三〇年の高等学校社会科学習指導要領の改訂に伴い、改訂を加えた「新日本史」について、同三一年一一月および同三二年五月に検定申請があつたこと、同三四年から三訂版が、同三七年から四訂版がそれぞれ発行されたこと、以上のことは認める。ただし、検定申請者は三省堂であつて原告ではない。その余の事実は争う。ことに、原告が主張する昭和三〇年の二一六項目にわたる修正要求なるものは、妥当でないと認められる箇所について参考意見を述べたものであつて、修正要求では決してない。また、原告が修正要求を拒否したと主張する事例についていうと次のとおりである。

(1)項について、被告側が示した意見は、原告が主張するように「貴族院と枢密院の二院が政党の横暴を防いだ」というのではなく、「そのような役割をも一面では果していたと考えられるので、このようなことをも配慮して記述してはどうか」という参考意見を述べたものであつて、原告の主張とは趣旨を異にし、削除要求ではない。

(2)項について、被告側が示した意見は「凡そすべての国民に支持される政策というものは少ないのに、原告の記述によるとことさらに反対の意見を強調しているように受取られるので、表現について何らかの配慮をしてはどうか」と参考意見を述べたものであつて、原告の主張とは趣旨を異にし、削除要求ではない。

(3)項について、被告側が示した意見は、大略記載のとおりである。しかし、それは参考意見であつて、もとより削除要求ではない。

(四) 諸外国の教科書制度

本項の記述は不正確である。例えば、西ドイツにおいては、州の文部省が検定を行なつているが、これは同国が連邦制度をとつていて、連邦政府には文部省が設置されていないのであつて、このことをもつて単純にわが国の場合と比較することは当を得ない。イタリアにおいては、教育の目的に合致しない教科書の使用を禁止する権限が文部省に留保されている。また、国定教科書の制度をとつている国(例えば、ソ連、中共等、台湾、アフガニスタンでは小学校の教科書のみ、一部の教科のみを国定にしている国もある。)があることについては、全然触れるところがない。したがつて、本項の記述をもつて各国の大勢とすることは妥当ではない。

2教科書検定制度のしくみ

(一) 検定制度の大綱について

認める。ただし、旧教育委員会法においては、都道府県委員会の教科書の検定は、「文部大臣の定める基準にしたがい」行なうべきものと規定されていた。

(二) 検定の基準について

教科用図書検定基準は、文部省初等中等教育局が定めたものではなく、文部大臣が定めたものである。結論の「各第一項を比較すれば、改訂の意図するところが明らかである。」は争う。同基準の絶対条件の第一項は、改定前と改定後とにおいてとくに趣旨が変つているものではない。その余の事実は認める。

(三) 検定の手続について

教科用図書検定調査審議会の委員の人選に対する批判は争う。人選は公正に行なわれている。調査員の調査期間についての記述も争う。期間は、通常二〇日間から五〇日間程度に及んでおり、申請原稿の内容・分量等に応じて十分な期間が与えられている。

A意見およびB意見についての説明は不正確である。A意見は、それを修正しなければ合格とは認められない程度の欠陥について示すものであつて、合格条件である。B意見は、欠陥ではあるが、それを修正しなくても合格と認められる程度のもの、または、欠陥とはいえないが、それを修正する方がより良くなると認められるものについて示すものであつて、いずれも修正する方が望ましいと認められるが、それを修正するかどうかは最終的には著者に任せられる性質のものであつて、いわば参考意見である。実際上もそのように運用されている。このようにA意見およびB意見を示すことにしているのは、A意見については、申請原稿のままで合格と認めてよいという図書がほとんどないという実情にかんがみ、検定制度の趣旨に照らしてなるべく多くの教科書を合格させるための措置であり、かつ、不合格となつた場合に行なう再申請という手続を省略するという申請者の利益をも考慮して行なつている措置であり、また、B意見については、教科書のもつ重要な意義にかんがみ、参考意見を示して著者の自主的な判断と選択によつて教科書の内容をより良くしていくための措置であつて、いずれも必要適切な措置である。原告は、これらを目して修正要求であると主張しているが、それはまつたく曲解であるといわなければならない。

文部大臣が審議会の答申について、ほとんどそのまま合格を決定するという記述は不正確である。審議会の答申を尊重して、答申のとおりに決定している。

不合格処分について、出版者、編著者の意見を事前に聴取する等の手続をまつたく設けていないとの主張も失当である。教科書の検定は、本来、当該図書が教科用に適するか否かを認定するのであるから、図書自体について審査を行なえば足りるのであつて、合否の審査にあたつて原稿以外の多くの補足説明を必要としないはずのものである。それに、一般的にいつて不合格のときに限らず、検定申請にあたつては、必ず著者がとくに意を用いた点または特色について調査の参考として欲しい事項を記載した編集趣意書を提出させることにしているほか、調査上必要な資料の提出を求めており、また、多くの人による綿密慎重な調査により公正にして客観的な審査を保障している措置とあいまつて、著者等の意見の事前聴取については、現状の程度が適当かつ十分である。

教科書調査官が文部省設置法施行規則の一部改正によつて設置されたことが不当であるとの主張は争う。教科書調査官は、検定についての文部大臣の権限を適正に遂行するための必要な調査等を行なうため、通常の方法に従い、適法に設置されたものである。教科書調査官の設置と教科書法案との関係は前記のとおりである(歴史的にみたわが国教育政策の問題性の項を参照)。教科書検定に行政官僚が直接関与することになつたとの主張も争う。教科書調査官は、各教科に関し専門知識を有する職員(経歴からみても大多数の者は大学、高専において教授・助教授であつた者)である。また、その職務内容も審議会に調査意見を提出し、かつ、合否等についての決定の結果をそのまま伝達するに過ぎない。

その余の事実は認める。

3教科書検定制度の違法性

(一) 原告は、教科書の検定が憲法第二一条第二項にいう検閲に該当するので、憲法第二一条に違反すると主張しているが、これは誤りである。憲法第二一条第二項に規定する「検閲」とは、出版等の方法による思想の発表に先立つてあらかじめ思想内容を検査し、不適当な部分についてはその発表を禁止することと解されている。ところで、教科書の検定は、その図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものである(教科用図書検定規則第一条第一項)。それ故、かりに検定に不合格となつても、その結果当該図書が教科用図書に採用されないという効果を生ずるにとどまり(学校教育法第五一条、第二一条)、それ以上に当該図書の出版を禁止する効果までを生ずるものでは決してない。このように思想の発表を禁止するものでない以上、「検閲」に該当しないことは明らかである。

(二) 原告は、教科書の検定が教育基本法第一〇条に違反するから違法であると主張しているが、これもまた誤りである。教科書の検定は学校教育法第二一条、第四〇条、第五一条、文部省設置法第五条第一二号の二、第八条第一三号の二という法律上の根拠に基づいて行なわれているものである。このように、検定が法律上の根拠に基づいて行なわれるものである以上、検定それ自体が教育基本法第一〇条に違反する違法な行為であるとの非難が起きる余地はないのみならず、実質的に考察しても、検定は教育基本法第一〇条の趣旨に違反するものではない。原告の主張は、検定が教育内容に権力的に介入して教育内容の画一化を図るものであるから、それは教育行政が教育内容以外の、「外的諸条件」の整備に当るよう、その任務と限界を定めた同条第二項に違反するとともに、教育に対する不当な支配でもあるので、同条第一項にも違反するというにあるようであるけれども、教育基本法第一〇条第二項の解釈として、教育行政の任務と限界とを原告主張のように、教育内容以外の諸条件の整備に限定すべき合理的理由はない。教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標とするかぎり、教育内容であれ、その他の諸条件であれ、教育行政は当然におよぶものである。これを教科書の検定についていえば、次に述べるように、教育行政の当然の任務に属するといえる。

すなわち、検定は高等学校以下の初等教育および中等教育を施こす諸学校において使用される図書が、教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めることである(学校教育法第二一条、第四〇条、第五一条、第七六条、教科用図書検定規則第一条)。元来、これらの学校においては、未だ心身の発達が十分でない児童・生徒に対して、将来の国家、社会の形成者として必要な普遍的、基礎的な教育を与えることを目的としている。したがつてこの目的達成のためには、初等教育および中等教育について、機会均等を確保するとともに、必要な教育水準の維持向上と適切な教育内容の保障を図ることが是非とも必要である。ところで、教科書は、これらの学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された各教科の主たる教材として教授の用に供される児童用または生徒用の図書であり(教科書の発行に関する臨時措置法第二条第一項)、それらの学校において使用を義務づけられているのであつて、その内容は、これらの学校における教育水準や教育内容を規定する重要な役割を有している。教科書のもつこのような役割にかんがみ、初等教育および中等教育の目的達成のためには、その内容が教育基本法の定める教育の目的および学校教育法に定めるそれぞれの学校の目的、目標に合致するものであり、それらに従つて適切に定められた教育課程の基準である学習指導要領に定める教科の目標、内容等に適合するものであり、その内容が公正なものでなければならないことは当然である。検定は、これらの学校で用いられる図書が右のような見地からみて教科書として適したものであるか否かを認定することであるから、それは正しく初等教育および中等教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確保の一環として行なわれているというべく、教育行政の任務に当然に属するものである。

このように、教科書の検定は教育行政の任務と限界を越えるものでないから、教育基本法第一〇条第二項に違反するものではない。また、教科書の検定は、図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めることであつて、教育内容を権力的に画一化するものではない。したがつて、検定をもつて教育に対する不当な支配であるとなし、教育基本法第一〇条第一項に違反するとする原告の主張も理由がない。

(三) 原告は、検定が一定の政治的イデオロギーに基づいて行なわれ、または、恣意的な判断に基づいて行なわれているため、教科書の内容を歪め、正しい知識を学びとるべき子供の学習の権利を損なつており、これは憲法秩序の全体に反すると主張しているけれども、原告の右主張は全面的に争う。むしろ、検定が一定の政治的イデオロギーに基づいて行なわれることは、教科用図書検定基準において厳に排除しているところであり、また、恣意的な判断に陥いらないよう慎重な手続を講じてあるのである。

4  検定の基準および手続の違法性

原告の主張は、検定制度に、それが濫用されて、言論、表現の自由を不当に侵したり、あるいは教育内容に権力的に介入して画一化することのないようにするための制度的、手続的保障が具備されていないので、検定自体が違法となるというにあるようである。そして、その根拠として憲法第一三条、第三一条を掲げているようである。けれども、憲法第一三条は、生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とするとしているもので、立法上および行政運用上の指針を示したにとどまり、この規定自体から直ちに原告主張のごとき結論は出てこない。また、憲法第三一条は、その規定の位置および文言(「……その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」)からして刑事手続に関する規定であると解するのが妥当である(美濃部達吉・日本国憲法原論二〇二頁、佐々木惣一・日本国憲法論四三五頁、駐解日本国憲法上巻五八六頁)から、教科書の検定のような行政手続には適用がない。したがつて、憲法第三一条を根拠にする原告の主張は理由がない。

もつとも、行政庁が行政行為を行なうにあたつては、実体的な判断が公正であることを要するとともに、その手続についても公正が要請されることは当然である。そのため法令は各種の行政行為の目的、性質、内容等に照らして、それぞれに相応する手続を定めているのである。このように行政行為の手続について法令の定めがある場合は、これを履践しなければならないことは勿論であるが、手続について法令に別段の定めがない場合は、どのような手続によるかは、原則として行政庁の合理的な裁量に任されているというべきである。原告の主張するように制度的、手続的保障が具備されていないこと、そのことにより行政行為自体が違法になるという理由はない。のみならず、原告が濫用の危険があるとして具体的に列記している検定の基準および手続に関する主張も、次に述べるとおり誤りである。

(1) 原告は、検定基準が、一面では包括的であり、他面では詳細であり、ときには抽象的な表現であるので、恣意的な判断を防止えないと主張している。しかし、検定基準の定める内容は、学識経験者、教職員らをもつて構成される審議会の良識をもつてすれば、十分に公正な判断を下すことができる程度のものであつて、原告の主張は失当である。

(2) 検定基準は学習指導要領を引用しているが、学習指導要領は法的拘束力を有しないから、これによる検定は許されないと原告は主張している。しかし、学習指導要領は、教育基本法に従い、高等学校以下の学校における初等教育および中等教育の機会均等の確保、教育水準の維持向上を図ることを目的として、学校教育法第二〇条、第三八条および第四三条の規定に基づいて定められた教育課程の基準である。したがつて、それは教育基本法第一〇条の趣旨に即し、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立のために適法に定められた文部省告示であつて、その法規命令としての効力を否定する理由はない。

(3) 原告は、「教育基本法に適合しているか」、「内容の選択程度が適正であるか」、「内容が正確であるか」等の検定基準は、教育内容にわたつて検定を行なう危険性があると主張するもののようである。しかし、検定が教育内容にわたる場合であつても、それは教育行政の任務に属し適法であることは前記のとおりである。また、検定は、取り扱われた内容が検定基準に照らし教科用として妥当であるか否かを判断するものであり、学説や見解について、その学問的な価値自体を評価しようとするものではない。

(4) 原告は、検定が公正に行なわれるための制度的、手続的保障がないと主張している。しかし、第一に、教科用図書検定調査審議会の委員は、教科書に関し職見を有する学織経験者、教育職員のうちより文部大臣が任命しているのであつて、不公正な人選を行なつているとされるいわれはない。第二に、教科書調査員の氏名、教科用図書検定調査審議会の議事等を公開しないのは、検定が公正に行なわれることを確保するためである。すなわち、もし、これらを公開した場合は、検定申請者等から不当な圧力が加わり、検定の公正が保たれないおそれが多分に予測されるのである。第三に、不合格理由については、文書の他に口頭により詳細な補足説明を行ない、また、質問等を認めて、趣旨の十分な伝達を期している。第四に、条件付合格の際の合格条件および参考意見の伝達は、文書によるよりも口頭による方が十分に意を尽すことができるので、合理的であり、また、録音等を認めることにより口頭説明により生ずる支障がないようにも配慮している。第五に、出版者、編集者の意見については、合否決定前に編集趣意書を提出せしめ、検定調査上の参考にするほか、調査上必要な資料の提出を求める等の措置を講じている。第六に、不合格の場合には、行政不服審査法による異議申立の途が開かれており、また、条件付合格の際の合格条件については、各条件につき、意見の申出を認め、その申出に理由があると認められるときは、当該条件を撤回する簡便な救済制度を認めている。以上のとおり、原告の各主張はすべて失当である。

5検定基準違反

(一) 三八年申請白表紙本三三頁の脚注に、原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、原告主張の部分が削除されたこと、同脚注の本文として主張のような記述があつたこと、以上のことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、傍線の部分に「すべて……である。」と記述してあるのは、「断定に過ぎ、不正確な記述ではないか」ということをB意見として伝えたに過ぎない。文部大臣のこのような参考意見に対し、原告は自主的に傍線の部分を削除したものであつて、文部大臣は原告に削除を強要したことはまつたくない。したがつて、削除要求が学習指導要領に違反するとの原告の主張は失当である。また、傍線部分を削除しても、原告の主張するように記述が不正確になり、史実そのものと誤解させるようなことにはならない。のみならず、右白表紙本の記述は、前記のとおり不正確であつて、それこそ学習指導要領の「史実を実証的、科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う」目標に反するものである。

(二) 三八年申請白表紙本一九六頁および一九七頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、前者が削除され、後者が脚注を加えて訂正されたことは認める。その余の事実および主張は争う。前者について、文部大臣は、菊の紋章の使用は、ひとり大日本帝国憲法にのみ特有のことではなく、切手、紙幣、貨幣をはじめ、国家機関の公文書や建築物にも広く認められていたところであるから、右白表紙本のような「金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している。」との記述は、あまりに主観的に過ぎること、また、「欽定憲法の威厳を示している」との表現は、同憲法が何かことさらに威厳をもつて国民に臨んだ憲法であるかのような、一面的な理解に導くおそれがあることをB意見として伝えたものである。

また、後者の記述については、当時の日本の制度からみて憲法に限らず、すべて法令は公布の日まで国民に公表されないのが普通であるのに、右白表紙本のような記述によると、大日本帝国憲法のみが特別の事情から秘密とされたような誤つた認識を与え、それがひいては同憲法について適切でない理解に導くおそれがあることをA意見として示したものである。

文部大臣のこのような意見に対し、原告において自主的に削除または訂正したものであつて、文部大臣は原告に対して削除または訂正を強要したことはまつたくない。したがつて、修正、削除要求が学習指導要領に反するという原告の主張は失当である。むしろ、右白表紙本の記述は、前述のとおり、不正確または内容の選択が適切でなく、学習指導要領にいう「時代の性格を明らかにし、現代社会の歴史的背景を把握させる」という立場からすれば不適当であるといわなければならない。削除または訂正後の記述の方が学習指導要領の右趣旨により合致しているといえる。

(三) 三八年申請白表紙本二三八頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、その主張のような訂正があつたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、大日本帝国憲法第二九条が、完全ではないにしても、学問の自由と密接な関連のある言論、著作、印行、集会、結社の自由を認めており、ある程度学問の自由を保障しているのに、右白表紙本のような記述によると、大日本帝国憲法がまつたく学問の自由を保障していなかつたかのような誤つた認識を与えるおそれがあることを、B意見として示したものである。すなわち、右B意見は、当時における人文科学の研究が制限された史実を肯定した上で、その表現について指摘したものに過ぎない。このような文部大臣の意見に対し、原告において自主的に削除、訂正を行なつたものであつて、文部大臣は削除、訂正を強要したことことはまつたくない。したがつて、修正要求が学習指導要領に反するとの原告の主張は失当である。むしろ、右白表紙本の記述は、不正確であつて、原告が引用している学習指導要領の部分の趣旨に照らし適切ではない。

(四) 三八年申請白表紙本二五八頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果「無暴な」の字句が削除されたことは認める。文部大臣は、第二次世界大戦のような最近の事実については、歴史的評価が定まつていないので、評価を避けてできるだけ客観的に記述する慎重な態度をとることが教科書としては望ましいことを、B意見として参考に示したものである。文部大臣のこのような意見に対し、原告は自主的に右の削除を行なつたものであつて、文部大臣が削除を強要したことはまつたくない。

次に、昭和三七年八月一五日に検定申請した原稿に、原告主張のような五葉の写真がさし絵として掲載されていたこと、三八年申請白表紙本に、右五葉の写真のうち、「戦争の惨禍」と題する街頭で募金する義手の白衣の軍人の写真が掲載されていなかつたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、昭和三七年度検定の不合格理由を説明する際、原告からの質問に応じ、これらの第二次世界大戦に関する最初の四葉の写真については選択がとくに不適当ではないが、ただ「戦争の惨禍」と題する写真は、白衣の元軍人の写真であるが、顔のうち口から上の部分がたち切られ、義手が露出していてきわめて残酷なものであり、教科書に掲載する写真としては選択が適切ではないという趣旨を述べたものである。原告の主張のように、これら五葉の写真が「全体として暗すぎる」という趣旨のことを述べたのではない。これに対し、原告は三八年申請白表紙本においては、「戦争の惨禍」と題する写真を自主的に削除しているのであつて、文部大臣において削除を強要したことはまつたくない。

以上、削除要求が学習指導要領に反するとの原告の主張は、いずれも失当である。

原告が主張する「戦争のもたらす人類の不幸や損失について深く考えさせる」についても、教育上の他の条件への配慮が要請されることはいうまでもない。

(五) 三八年申請白表紙本二七四頁に、原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、「基地」が「施設(一般には基地と言つている)」と修正されたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣側では、日米安全保障条約第六条によると、「施設及び区域」と規定されているが、「施設及び区域」と「基地」とではその内容が異なるので、表現が不正確であることをA意見として指摘したものである。

文部大臣の指摘の趣旨が右のようなものであつたことは、修正後の表現をみても十分に窺えるところである。文部大臣のこのような指摘に対し、原告は自主的に前記のように修正したのであつて、文部大臣が修正を強要したことはまつたくない。のみならず、原告の主張は日米安全保障条約による米軍の日本駐留が、憲法の平和主義の原則に反するという評価を前提とするものであるが、この前提自体が誤りである。また、原告は、文部大臣の右指摘を目して、「ことさらに不正確な表現を用いることを強いた。」と主張しているが、右白表紙本の記述こそ不正確であつて、修正後の表現の方がより正確である。

以上、いずれの点からみても、原告の検定基準に反するとの主張は失当である。

四損害の発生

本項における事実および主張のうち、昭和三四年から昭和四〇年にかけて、原告主張の発行部数どおりの「新日本史」三訂版、四訂版、新(五)訂版がそれぞれ発行されたこと、昭和四〇年度使用の新(五)訂版の一部の定価が金一六〇円であることは認めるが、その余はすべて争う。ことに、昭和三九年に条件付合格になつた検定に関しては、文部大臣の意見に対し、原告において自主的に修正、削除を行なつたのであるから、検定と原告主張の精神的苦痛との間には相当因果関係が存しない。かりに、原告に精神的苦痛を生じたとしても、それはきわめて軽微であり、かつ、主観的なものであつて、賠償請求を認めるに足りないものである。すなわち、検定は、図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めることである。それで、昭和三七年度の検定不合格決定によつても、その図書が教科書として採用されないという効果を生ずるにとどまり、それ以上に図書の出版を禁止するものでは決してない。それ故、このような検定不合格により原告が被る精神的苦痛というのはきわめて軽微であり、かつ主観的なもので客観性に乏しいといえる。また、昭和三八年度条件付合格の分については、ともかく検定に合格となり、教科書としても採用されることが認められたのであり、かつ、削除、修正の箇所についても原告において自主的に行なつたのであるから、原告において精神的苦痛を被つたとしても、それは取るに足りないものであり、かつ、きわめて主観的なものといわなければならない。したがつて、かりに、原告が精神的苦痛を被つたとしても、賠償請求を認めるに足りないものである。

原告は、もし昭和三八年四月一一日の昭和三七年度検定不合格処分がなかつたとしたら昭和三九年度に発行されたはずの「新日本史」新訂版の発行部数を推計しているが、その推計は次に述べる理由から合理的ではない。

原告は、「昭和三八年度から日本史は必修科目となつたため、全生徒が受講しなければならなくなつた事情にあること」を前提として推計を行なつている。たしかに、社会科日本史は、昭和三五年の改訂以前の高等学校学習指導要領においては必修科目ではなかつた。同年の改訂後の高等学校学習指導要領においてはじめて普通科の生徒については必修科目となつたが、その他の学科の生徒については依然として選択科目である。また、右高等学校学習指導要領は、学校教育法施行規則の一部を改正する省令(昭和三五年文部省令第一六号)附則第一項の規定により、昭和三八年四月一日以降高等学校の第一学年に入学した生徒にかかる教育課程から適用されることになつていた。そして、社会科日本史は、通常第三学年において履修することとされているので、普通科の生徒に限つてみても、通常、昭和三八年度に高等学校第一学年に入学した生徒が第三学生に進学する昭和四〇年度から必修科目となつたものであつて、原告が主張するように昭和三八年度から必修科目となつたものではない。したがつて、昭和三九年度には、日本史はまだ必修科目ではなかつたのであるから、必修科目となつた昭和四〇年度より発行部数は当然少ないはずである。それ故、昭和三九年度に昭和四〇年度と同一の発行部数があると仮定して、昭和三九年度の発行部数を推計している原告の主張は、合理的でないといわなければならない。

五国家賠償法の適用

文部大臣、事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局審議局妹屋茂喜、同局教科書課長諸沢正道、同課教科書調査官渡辺実が、いずれも国から給与を受け、かつ、国の選任、監督する公務員であることは認めるが、その余の事実および主張は争う。

ことに、検定は法律に規定されているのであり、文部大臣が国家公務員として法律に従い検定を行なうことはきわめて当然のことであるから、検定制度自体の違法(実体面および手続面の双方を含む。)を理由としては、国家賠償の請求は成り立たない。

六以上のほか、被告の主張は、別紙(一五)ないし(二四)のとおりである。

第四証拠〈略〉

理由

第一  本件各検定処分とその経緯

一  原告の経歴とその地位

原告は、昭和一二年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事してきたものであるが、昭和一六年以降旧制新潟高等学校教授、昭和一九年以降東京高等師範学校教授を歴任し、昭和二四年学制改革に伴い、以後今日に至るまで東京教育大学教授の職にあること、その間、昭和二三年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を授与され、昭和二五年には、論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、著書には右のほか「日本道徳思想史」、「日本近代思想史」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「歴史と現代」など日本史および歴史教育に関するもの約三〇冊があること、昭和二一年に戦後初の国定の日本史教科書が編纂されるに当つて文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」編集に従事し、昭和二七年以降は三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」を執筆、改訂を行なつてきたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  本件検定処分に至る経緯

1  〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) 原告は、戦後まもない頃から中等学校用の新しい教科書の執筆を考えていたが、昭和二二年とりあえず一般書として「新日本史」を発行した。その後、三省堂より新学制による高等学校用の日本史教科書の執筆依頼を受けたので、右「新日本史」を土台としてこれを全面的に書き改め、昭和二七年に三省堂発行の「新日本史」として高等学校用日本史教科書の検定申請をした。

原告は、戦前の日本史教育が、神話や伝説をあたかも客観的事実のごとく教えたことにみられるように非科学的であり、また、政治権力者中心の視野の狭いものであつた点を反省し、右教科書では、まず何よりも客観的事実を歴史教育の中心におき、日本国憲法ならびに教育基本法の理念に従うこと、民衆の生活史、文化史を重視し、従来ともすればいわゆる暗記物になりがちな網羅主義を避けて、統一的、重点的に歴史の流れを生徒に把握させることなどをとくに配慮した。

ところが、右「新日本史」は当初検定不合格とされたが、原告が別段修正もせず再度検定申請をした(当時の検定制度ではこれが可能であつた。)ところ、今度は合格し、昭和二八年度から教科書として発行された。

(二) 原告は、昭和三〇年右出版社の要請により、前記初版本に全面的な添削を加えて検定申請をしたが、これは条件付合格となり、全部で二一六項目にのぼる修正意見を付された。この原稿は原告と文部省との間に再三にわたる折衝が行なわれたのち、最終的には検定に合格し、「新日本史」(改訂版)として昭和三一年度から使用された。

(三) 昭和三〇年には高等学校社会科の学習指導要領が改訂され、教科書もまたこれに準拠したものを使用しなくてはならなくなつたため、原告は、新しい学習指導要領に合わせて書き改めた「新日本史」三訂版を昭和三一年一一月二九日付で検定申請したが、昭和三二年四月九日不合格処分の通知を受けた。原告は、これに対し文部省あての抗議書を提出したが容れられず、同年五月再申請分も不合格処分となつたため、修正の上三度検定申請をしたところ、ようやく合格したので昭和三四年度から三訂版として発行した。

(四) その後、数年を経て、原告は、右三訂版に部分的改訂を加え、四分の一改訂として検定申請(教科書検定規則第一〇条、第一一条第一項)をし、これに合格したので、昭和三七年度から四訂版として発行し、これは昭和三九年度まで使用された。

2本件各検定処分につき、以下の事実は当事者間に争いがない。

(一) 昭和三五年高等学校学習指導要領が全面的に改訂され、教科書改訂の必要が生じたので、三省堂は昭和三七年七月一五日(成立に争いのない甲第一一号証)原告の執筆にかかる「新日本史」五訂版原稿につき検定申請を行なつたところ、文部大臣は翌三八年四月に至り不合格処分を決定し、同月一二日文部省において原告および三省堂担当社員らに対し同省初等中等教育局長福田繁作成名義の同月一一日付不合格決定通知書が交付され、その際同局教科書調査官渡辺実より不合格の理由が告知されたが、同調査官村尾次郎、同貫達人の両名もこれに列席した。

(二) 原告は、前記原稿に若干の修正を加えて、昭和三八年九月三〇日三省堂より再び検定申請をしたところ、文部大臣は昭和三九年三月条件付合格の決定をなし、同月一九日文部省において原告および三省堂担当社員らに対して初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上教科書調査官渡辺実より右原稿につき条件付合格となつたことならびにその合格条件等が伝達された。

三  教科書検定制度の沿革

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他に同認定に反する証拠はない。

1  終戦前の制度

明治四年廃藩置県が行なわれ、中央行政機構整備の一環として同年七月全国の学校を管轄するため文部省が設置された。翌五年学制(同年八月三日文部省布達第一三、第一四号)が発布され、学校を小学、中学、大学の三段階に分けた。この公布に当つて同年七月発せられた学制序文(太政官布告第二一四号)は、一般に被仰出書とも呼ばれているもので、学校における学問の意義を次のように述べている。すなわち、「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身を脩め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず」とし、これが学校設立の理由であつて、学問は身を立てる財本というべきものであると説いた。また、右学制において教育の機会均等の原則が示されたが、これにつき、右序文に「自今以後一般の人民(華士族農工商及婦女子)必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と記している。

これがわが国の近代教育制度の発足であるが、明治一二年学制を廃して教育令(同年太政官布告第四〇号)を公布した。これによれば、学校はこれを小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校その他の各種学校とし、とくに国民教育の基礎である小学校教育の整備に重点をおいた。教育令は、当時の自由民権思想の影響を受けて範をアメリカ合衆国の教育行政に求め、学制の中央集権的、画一的性格を改め、教育の地方分権化を図つたものであつたが、これには批判が強く、明治一三年一二月には早くも改正され、同一八年には経済的不況のため再度改正された。

その間、文部省は教科書に関し明治五年九月「小学教則」を公布して、各教科別の教授要旨を定め、小学校における教科書を指示した。しかし、当時は教育体制が備つていないため、教科書についても特別の制度はなく、欧米の教科書を翻訳したもの、寺小屋時代の往来物、藩校の漢籍などが多く用いられ、また、文明開化の啓蒙書もよく使用された。そこで、文部省は小学校教科書の編集に着手し、明治六年四月「小学校図書目録」を公示し、文部省や東京師範学校が編集した教科用図書や掛け図が右指示図書中に追加されたが、実際にどの図書を教科書に使用するかは各府県、各学校の自由選択に委されていた。

ところが、明治一二年いわゆる「教学聖旨」が公けにされたのを契機として明治初期の文明開化の思想が後退し、教科書制度も次第に改変されていつた。すなわち、明治天皇は、同一一年東山、北陸および東海各地を巡幸の折、維新後の急激な教育改革が民衆の生活と遊離し、民衆の間にはかえつて国の教育制度に対し不満を抱くものも少なくなく、就学率も低下している実情を視察し、文教政策振興の必要を痛感するに至り、教学の本義がいかなるところに存するかを侍講元田永孚に指示して起草せしめたものが右教学聖旨である。明治一四年には小学校の教科書について開申制度(届出制度)、同一六年には小、中学校の教科書につき認可制度が設けられた。そして、明治一九年には小学校令(同年勅令第一四号)、中学校令(同年勅令第一五号)、師範学校令(同年勅令第一三号)および帝国大学令(同年勅令第三号)が制定され、これによつて戦前の学校制度がほぼ確立された。文部省は、右小学校令(第一三条)および中学校令(第八条)により小学校と中学校の教科書について検定制度を採用し、同年五月教科用図書検定条例(同年文部省令第七号)を定め、翌年これを廃して新たに教科用図書検定規則(明治二〇年文部省令第二号)を定め、教科書検定実施の基準とした。

また、明治二二年には大日本帝国憲法、同二三年には教育勅語がそれぞれ発布されたが、その後明治三六年に至り、その前年度に発生したいわゆる教科書疑獄事件を契機として、小学校令の一部改正(明治三六年勅令第七四号)により小学校の教科書は文部省において著作権を有するものに限られることとされて国定制が実施されることになり、中学校については昭和一八年中等学校令(同年勅令第三六号)により国定制がとられるに至つた。

2  戦後の制度

(一) 昭和二〇年八月わが国はポツダム宣言を受諾し連合国軍の占領下に置かれ、文部省は同年九月「新日本建設ノ教育方針」を発表した。しかし、その第一項に示された新教育の方針は「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシ……」というものであつた。他方、連合国軍総司令部は、日本における軍国主義勢力の除去と民主化のため次々と指令を発したが、教育についても、同年一〇月「日本教育制度ニ対スル管理政策」と題する指令を発し、軍国主義、極端な国家主義の教育内容からの排除、基本的人権思想の教授および実践の確立、教育関係者の資格審査などを求め、さらに、同年一二月には修身、日本歴史および地理の三科目の授業停止ならびに使用中の教科書の回収を指示した。そして、このうち地理については昭和二一年六月、日本歴史については同年一〇月の覚書により、文部省が編集し右総司令部の認可を経た教科書のみの使用による右二教科の授業再開を許可したが、修身科についてはそれが許可されず、昭和二二年新発足した社会科のなかに地理、日本歴史とともに公民が含まれることとなつた。

ところで、戦後のわが国の教育を最も根本的に方向づけたものは、昭和二一年来日した米国教育使節団の総司令部あて報告書である。そこでは、日本の過去における教育の問題点を克明に指摘し、これに代るべき民主的教育のあり方を提言している。端的にいえば、個人はその能力と適性に応じた教育の機会均等が与えられなくてはならないこと、また、教育内容、方法および教科書の画一化を避け、教育における教師の自由と関与をより広く認めるべきことを強調している。

右教育使節団に対し日本の情報を提供し、意見を交換するため、わが国の学識経験者による教育家委員会が編成されたところ、同委員会は、たんに右活動にとどまらず、より積極的に教育行政の地方分権化や学制の六・三・三・四制など独自の改革案を提唱したが、その後同年八月内閣に新しく教育刷新委員会が設置されるに及んで発展的解散をした。

昭和二一年一一月三日日本国憲法が公布され、翌二二年五月三日より施行された。これによりわが国の基本的教育体制が確立され、憲法第二六条は国民の教育を受ける権利を国民の基本的人権として認めたのである。同年三月教育基本法および学校教育法が公布施行され(ただし、学校教育法の施行は同年四月一日)、小学校、中学校ならびに高等学校においては「監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」(同法第二一条第一項、第四〇条、第五一条)と規定し、ここに戦後の教科書検定制度が発足することになり、昭和二三年度より施行され、同二四年度からは前記各学校において検定済教科書が使用された。

文部省は、右教科書検定制度の発足に備えて、昭和二三年四月教科用図書検定規則(同年文部省令第四号)を公布し、昭和二四年四月教科用図書検定基準を文部省告示として公けにした。そして、昭和二三年七月制定公布された教育委員会法(同年法律第一七〇号・のちに「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の制定に伴い、昭和三一年九月三〇日かぎり廃止)第五〇条によれば、教科書検定の事務は都道府県教育委員会の権限に属する事項(私立学校については都道府県知事に属する。)とされたが、当時国内における用紙事情悪化のため、同法第八六条により「用紙割当制が廃止されるまで、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書のうちから、都道府県委員会が、これを採択する。」と定めた。他方、学校教育法第二〇条の「小学校の教科に関する事項は、第一七条及び第一八条の規定に従い、監督庁がこれを定める。」(中学校につき同法第三八条、高等学校につき同法第四三条)という規定における「監督庁」は当分の間文部大臣とする旨規定された(同法第一〇六条)。

ところで、学校教育法施行規則(昭和二二年文部省令第一一号・昭和三三年八月二八日文部省令第二五号による改正以前のもの)第二五条によれば「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては、学習指導要領の基準による。」と定められ、文部省は前記教科書検定制度の発足に先だち、昭和二二年春新しい教育課程の基準として学習指導要領一般編および各教科編を作成した。

しかしながら、これはかなり早々の間に作成されたものであつて、その表紙にも「(試案)」と明記され、その一般編の序論に述べられているごとく、あくまで教科課程につき教師自身が自分で研究していく手びきとして書かれたものであつた。

日本国憲法、教育基本法などの制定により、いよいよ教育勅語の取扱いが問題化してきたが、昭和二三年六月一九日衆議院は「教育勅語等の排除に関する決議」を、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」をなし、政府に対し直ちにこれらの詔勅の謄本を回収、排除する措置を講ずるよう要請した。

その後、昭和二六年に学習指導要領が改訂されたが、その一般編の表紙にも右二二年版と同様「(試案)」と明記されており、その序論においても「学習指導要領は、どこまでも教師に対してよい示唆を与えようとするものであつて、決してこれによつて教育を画一的なものにしようとするものではない。」と明記している。

(二) 昭和二七年四月二八日対日講和条約が発効し占領状態が終結を告げた。翌二八年八月学校教育法の一部改正(同年法律第一六七号)により教科書の検定権限は建前として都道府県教育委員会(私立学校においては都道府県知事)に属するとされていたのが改められ、恒久的に文部大臣に属することとなつた。

ところが、日本民主党は昭和三〇年二月の総選挙において、その選挙綱領のなかで「文教の刷新・施設の整備・国定教科書の統一」を公約、同年六月衆議院行政監察特別委員会は、教科書の不公正取引、偏向問題を取り上げ、証人喚問を開始したが、同年八月から一一月にかけて日本民主党から「うれうべき教科書の問題」と題するパンフレット(全三集)が出され、その第一集では「教科書にあらわれた偏向教育とその事例」としての次の「四つの偏向タイプ」を指摘した。

(1) 教員組合をほめたてるタイプ―宮原誠一編の高等学校用の「一般社会」(実教出版)

(2) 急進的な労働運動をあおるタイプ―宗像誠也編の中学校用の「社会のしくみ」(教育出版)

(3) ソ連・中共を礼讃するタイプ―周郷博、高橋一、日高六郎の小学校六年用の「あかるい社会」(中教出版)

(4) マルクス=レーニン主義の平和教科書―長田新編の「模範中学社会三年用下巻」(実教出版)

その後、同年九月には教科用図書検定調査審議会委員の交替があり、その直後の昭和三二年度用教科書の検定で八種類の社会科教科書が不合格となつたが、なかんずく中教出版株式会社発行岡田謙監修、日高六郎、長洲一二編著「日本の社会」は当時発行部数五〇万部をこえていただけに斯界に波紋を投じた。これは従来申請原稿一点につきA・B・C・D・Eの五人の調査員が調査に当つたが、全調査員が合格の評定をしているのに、六番目の人物として新登場したFの意見により結局不合格となるものが多いといわれ、それが特定の審議会委員ではないかと騒がれ、ジャーナリズムにもいわゆる「F項パージ」として取り上げられた。しかし、事実は慎重審議した審議会の意見を便宜F意見として表示したもの、または過大もしくは過小とみられる調査員の評定を除き、そのもの一名につき新規調査員二名に調査評定させ、これに便宜F、Gの符号を付したものであつた。

こうした時代的背景のもとに、昭和三一年の第二四国会に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案ならびに「教科書法」案が提出された。前者は教育委員の直接公選を改め、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するものとし、後者は教科書の検定、採択、発行、供給の全般にわたつて法制を整備しようとするものであつたが、右二法案に対しては、教育に対する国家統制の復活をうながすものであるとして、矢内原東大学長らのいわゆる「十大学長声明」をはじめ多くの批判があり、結局、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は成立したが教科書法は成立せず廃案となつた。しかしながら、文部省は、同年中に行政措置により中央教育審議会の委員を従来の一六名から八〇名に増員し、新たに同省に専従の教科書調査官四〇名を設け、検定申請のあつた教科書原稿の調査等に当らせることとなつた(昭和三一年一〇月一〇日文部省令第二六号による文部省設置法施行規則の改正)。

教育課程の基準とされた学習指導要領は、昭和二二年作成以降本件検定処分当時までに次のように改訂されてきた。

(1) 昭和二六年小・中学校および高等学校用の全面改訂

(2) 昭和三〇年一二月小・中学校の社会科のみ改訂

(3) 昭和三一年高等学校用のみ全面改訂

(4) 昭和三三年小・中学校用の全面改訂

(5) 昭和三五年高等学校用のみ全面改訂(本件検定処分に適用のもの)

(6) 昭和四三年小学校用のみ全面改訂

(7) 昭和四四年中学校用のみ全面改訂

(8) 昭和四五年高等学校用のみ全面改訂

右改訂はいずれも教育課程審議会の答申に基づくものであり、昭和三三年の小・中学校の各学習指導要領改訂からは文部省の告示をもつて公示され、教科用図書検定基準も同年に改訂された(同年文部省告示第八六号)。昭和三八年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(同年法律第一八二号)が成立し、小・中学校教科書の無償給与制が確立するとともに、小・中学校の教科書については都道府県教育委員会が採択地区設定権をもち(同法第一二条第一項)、いわゆる広域統一採択制(同法第一二条第一項、第一三条第三項)がとられ、文部大臣が教科書発行者を指定できるようになつた(同法第一八条)。

第二  現行教科書検定制度

一  教科書とは何か

教科書の意義について、実定法上は教科書の発行に関する臨時措置法(昭和二三年法律第一三二号)第二条によると「『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であつて、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と定義づけられている。他方、学校教育法によれば、小学校、中学校および高等学校などでは文部大臣の検定を経た教科用図書または文部大臣の著作権を有する教科用図書でなければ使用してはならない(同法第二一条第一項、第四〇条、第五一条)と定められている。したがつて、右諸学校において使用される教科書とは、文部大臣の検定済のものか、文部大臣が権作権を有するいわゆる国定のものでなければならないわけである。しかも、前示甲第八一号証の一によると、右諸学校では、例外として教科用図書検定基準のない教科あるいは基準はあつてもそれに合致するものが発行されていないなどごく限られた例外の場合を除いて、必ず教科書を使用することが義務づけられている(昭和二六年一二月一〇日文部省初等中等教育局長の京都府教育委員会教育長宛回答)のである。

右実定法の規定に〈証拠〉を総合すると、教科書につき次のことをいいうる。

1  教科書は主たる教材である。教科書は、前記諸学校においてその授業に使用する教材のなかで、中心的役割を果すべきもので、他の副読本、ワークブックまたは参考書など「教科用図書以外の図書その他の教材で有益適切なもの」(学校教育法第二一条第二項)、すなわち補助教材と称されるものと区別される。

2  教授の用に供される児童または生徒用の図書である。教科書は、右学校において心身ともに未発達の児童ないし生徒に対し教授用として使用されるものであつて、それなりの教育的配慮が必要である。

3  各教科課程の構成に応じて組織排列されたものである。教科書は、教科の主たる教材としてその系統的、組織的な学習に適するよう各教科課程の構成に応じて組織排列されたものであることを要し、この点でたんなる知識や技能の羅列されたものでもなく、また、学問的、学術的研究発表の場でもないのである。

4  学校教育の現場では、教師の教授活動においてはもとより、児童、生徒の学習においても教科書への依存度がきわめて高いというのが実情である。

以上の事実に公教育たる学校教育においては教育の機会均等と教育水準の維持向上が必然的に要請されることを併せ考慮すると、教科書について内容の正確性、立場の公正さが要求されるのはもとより、子供の発達段階に適応した内容の選択など教育的配慮が必須というべきである。

二  教科書検定の権限

学校教育法第二一条第一項は「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、これは中学校(同法第四〇条)、高等学校(同法第五一条)ならびに盲学校、聾学校および養護学校(同法第七六条)にそれぞれ準用されている。ただし、同法第一〇七条により、高等学校、盲学校、聾学校および養護学校ならびに特殊学校においては、当分の間同法第二一条第一項(同法第四〇条、第五一条、第七六条において準用する場合を含む。)の規定にかかわらず、文部大臣の定めるところにより、同条項に規定する教科用図書以外の教科用図書を使用することができると規定されている。そして、文部省の職務権限を明らかにしている文部省設置法第五条第一項は「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基く命令を含む。)に従つてなされなければならない。」とし、その第一二号の二に「教科用図書の検定を行なうこと」とされ、教科用図書検定規則第二条によると、教科用図書の検定は、教科用図書検定調査審議会の答申に基づいて文部大臣が行なうものと定められている。また、教科書の発行に関する臨時措置法第二条にも前記(第二の一)のごとく、「この法律において『教科書』とは、(中略)文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と規定されている。

この点につき、原告は、現行教科書検定については、教科書検定とは何か、いかなる基準、手続でなされるべきかなど国民の権利、自由にかかわる教育上の重要事項について法律により何ら定めるところがないので、現行教科書検定は憲法体系下における法治主義の原則に違反する旨主張するけれども、のちに(第三の六)詳述するように、教科書検定の権限、検定の基準、手続などにつき直接規定した法律の明文はなくても、学校教育法の右規定は、その反面において、教科書検定は文部大臣が行なう旨を定めたものと解するのが相当であつて、これにより文部大臣の教科書検定の権限に欠けるところはないものというべきであり、その他の検定実施上の手続規定に関しては、学校教育法第八八条、第一〇六条により文部大臣がその法律の委任に基づき国家行政組織法第一二条第一項所定の省令として教科用図書検定規則を定めているのであるから、原告の右主張は理由がない。

三  教科書検定の組繊

1  文部大臣の補助機関

教科書検定は、文部省の所掌事務に属し(文部省設置法第五条第一項第一二号の二)、同省内部では初等中等教育局の担当とされている(同法第八条第一三号の二)。そして、同局には局長および教科書検定課長(本件検定当時は教科書課長)が置かれる(国家行政組織法第二〇条第二項)ほか、審議官二名(同法第二〇条第三項、文部省組織令第一三条第一項)および教科書調査官(文部省設置法施行規則第五条の二)が置かれている。教科書調査官は昭和三一年一〇月文部省令第二六号をもつて設置されたものであつて、その員数は、別に定める定数の範囲内でこれを置くこととされており(同法施行規則第五条の二第一項)、本件検定当時においては四〇名であり、そのうち社会科担当の調査官は一〇名(うち日本史三名、世界史二名)であつた。そして、全調査官のうちから九名以内の者を担当する教科を定めて主任教科書調査官と称した(文部省設置法施行規則第五条第三項参照)。

右のものは、いずれも文部大臣の補助者として教科書検定関係の事務を担当したが、その各自の分掌するところは左記のとおりである。すなわち、初等中等教育局長は、同局の所掌事務の総括者として、他の事務とともに教科書検定の事務をもつかさどり(文部省設置法第六条第一項、第八条第一三号の二)、同局審議官は、命を受け、初等中等教育局の所掌事務のうち重要事項にかかるものを総括整理する(文部省組織令第一三条第二項)ものとし、教科書検定等の事務についても総括整理し、同局教科書検定課長は、同課の所掌事務である教科書検定に関する事務等を行ない(同組織令第五条、第一二条)、教科書調査官は、上司の命を受け、検定申請のあつた教科用図書および通信教育用学習図書の調査に当る(文部省設置法施行規則第五条の二、第二項)もので、その事務については教科書検定課長によつて総括される(同規則第五条の二)。

2  教科用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)

審議会は、検定申請の教科用図書を調査し、および教科用図書に関する重要事項を調査審議することを目的として文部省に設置されたもので(文部省設置法第二七条第一項)、その内部組織、所掌事務および委員その他の職員に関しては、同条第二項により政令に委任され、教科用図書検定調査審議会令(昭和二五年政令第一四〇号・以下「審議会令」という。)がこれを規定している。

(一) 審議会の所掌事務は、文部大臣の諮問に応じ検定申請の教科用図書および通信教育用学習図書を調査し、教科用図書に関する重要事項を調査審議し、ならびにこれらに関し必要と認める事項を文部大臣に建議する(審議会令第一条)こととされている。

(二) 審議会の組織を示すと次のとおりである。

(根拠規定)審議会令第六条、審議会令第一〇条第一項

(「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」第一条)

検定基準の作成および改訂その他の重要事項で、会長において審議会の審議を経る必要があるとあらかじめ認めた事項と文部大臣に対する建議に関する事項を除き、分科会の議決をもつて審議会の議決とされ(審議会令第九条、教科用図書検定調査審議会規則((昭和三一年一一月三〇日審議会決定))第一四条)、さらに、分科会長において分科会の議決を経る必要があるとあらかじめ認めた事項に関するものを除き、部会の議決をもつて分科会の議決とするものとされている(審議会令第一〇条第四項、「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」((昭和三一年一一月三〇日教科用図書検定調査分科審議会決定))第二条)。

したがつて、通常個々の教科書検定に関する右部会の合否の決定は、すなわち審議会の決定としてそのまま大臣に答申されることになる。

(三) 審議会の委員は一二〇名以内とし、教育職員、学識経験者および関係行政機関の職員のうちから文部大臣が任命するものとし(審議会令第二条第一、二項、第三条第一項)、必要に応じて文部大臣は審議会の意見を聴いて学識経験者のうちから臨時委員を任命することができる(審議会令第二ないし第四条各第二項)。

また、審議会には検定申請のあつた教科書および通信教育用学習図書の原稿を調査させるため、調査員が置かれ(審議会令第二条第三項)、専門の事項を調査する必要があるときは専門調査員を置くこともできる(同条第四項)。右調査員は文部大臣が学識経験者のうちから審議会の意見を聴いて任命するものとされている(審議会令第三条第二項)。

そして、証人渡辺実の証言によると、本件検定当時、審議会委員は総数一一〇名、そのうち、教科用図書検定調査分科会に属するものは八〇名で、さらに、第二部会(社会科)員に属するものはこのうち一五名であつたこと、調査員は約六〇〇名から七〇〇名であつたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

四  検定基準(当事者間に争いがない。)

教科用図書検定規則第一条第一項は「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする。」とするが、文部省告示による教科用図書検定基準(昭和三三年文部省告示第八六号昭和四三年八月二六日文部省告示第二八九号による改正前のもの、以下「検定基準」という。)およびその実施細則に当る教科用図書検定基準内規(昭和三三年文初教第五八六号)が定められている。

右検定基準は、全教科に共通な絶対条件三項目と各教科別の必要条件一〇項目から成立ち、その内容は次のとおりである。

1  絶対条件

このいずれかを欠くときは申請図書は絶対的に不適格となる性質のものである。

「(一) (教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これに反するものはないか。

(二) (教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。

(三) (立場の公正)政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派に偏つた思想・題材を採り、また、これによつて、その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難したりしているようなところはないか。」

2  必要条件

各教科ごとに定められ、これを欠くときは欠陥のある教科書とされるが、絶対条件のように絶対的に不適格とはならない性質のもので、その内容も実質的には各教科ほぼ共通であるが、社会科の場合は次のとおりである(地図を除く。)。

「(一) (取扱内容)取扱内容は学習指導要領によつているか。

取扱内容は、学習指導要領に定められた社会科の当該科目又は当該学年の内容によつている。

(二) (正確性)誤りや不正確なところはないか。また、一面的な見解だけを取上げている部分はないか。

(1) 本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に誤りはない。

(2) 本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に不正確なところはない。

(3) 本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に相互に矛盾しているところはない。

(4) 一面的な見解だけを、じゆうぶんな配慮なくとりあげている部分はない。

(5) 誤植(脱字・欠字、記号の脱落などを含む。)はない。

(三) (内容の選択)内容には、学習指導要領の示す教科の目標および科目または学年の目標の達成に適切なものが選ばれているか。

(1) 教科の目標、科目または学年の目標および学習指導要領に示す内容に照して、必要なものが欠けていない。

(2) とりあげた内容には、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに適切でないものはない。

(3) 注・さし絵・写真・地図・図表・問題などには、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに必要なものが選ばれており、適切でないものは含まれていない。

(4) 現代の社会生活や科学の進歩に適応したものが、必要に応じて選ばれている。

(5) 他の教科・科目および道徳との関連が、必要に応じて考慮されており、それらでの指導と矛盾するところはない。

(6) 健康・安全その他学校教育全般の方針および慣行に反しているところはない。

(7) 特定の営利企業や商品などの宣伝や非難になるおそれのあるところはない。

(四) (内容の程度等)内容の程度は、その学年の児童・生徒の身心の発達段階に適応しているか。また、児童・生徒の生活・経験および興味に対する配慮がなされているか。

(1) 本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料などには、その学年の児童・生徒の能力の程度に照して高すぎ、または低すぎるものはない。

(2) 本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料などにおいて、児童・生徒の生活・経験および興味に対する配慮がなされている。

(3) 児童・生徒の性別に対する必要な配慮の欠けているところはない。

(五) (組織・配列・分量)組織・配列および分量は、学習指導を有効に進めうるように適切に考慮されている。

(1) 内容の発展的な系統が全体としてたてられている。

(2) 各内容の配列や関連づけが適切である。

(3) 各内容の間に、不統一や不要の重複がない。

(4) 注・さし絵・写真・地図・図表などは、適切な位置に配置されている。

(5) 小学校にあつては、季節との関係が必要に応じて適切に考慮されている。

(6) 各内容の分量の配分は適切である。

(7) 全体の分量は、指導時間や児童・生徒の心身の発達段階からみて適当である。

(六) (表記・表現)漢字・かなづかい・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などは適切であり、これらに不統一はないか。また、表現は冗長・粗雑でなく、児童・生徒に理解しやすいものであるか。

(1) 漢字・かなづかい・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などは適切である。

(2) 漢字・かなづかい・おくりがな・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などに不統一はない。

(3) 文章は冗長・粗雑でなく、児童・生徒に理解しやすいものである。

(4) さし絵・写真・図表などは粗雑でない。

(七) (使用上の便宜等)目次・索引・注・凡例・諸表その他教科書使用上の便宜を与えるものが、必要に応じて用意されているか。また、出典などは必要に応じて示されているか。

(1) 目次・索引・注・凡例・諸表・問題・資料などが、必要に応じてとり入れられている。

(2) 目次・索引・注・凡例・諸表・問題・資料などは、利用しやすくできている。

(3) さし絵・写真・図表などには、必要に応じて説明が加えられている。

(4) 引用された材料には、必要に応じて出所・出典が示されている。

(八) (地域差・学校差)特定の地域や特に施設・設備のよい学校にだけ適するようになつていないか。

(1) 内容が都市または農村・山村・漁村のいずれにもかたよつていない。

(2) 内容が特定の地域にだけ適するようになつていない。

(3) 小学校にあつては、必要に応じて特定の地域に取材した内容でも、全国的に使えるように考慮されている。

(4) 普通の施設・設備のある学校で使いやすいようになつている。

(九) (造本)印刷、文字の大きさ・行間・書体、判型、分冊ならびに図書としての各部の表示その他に欠陥や適切でないものはないか。

(1) 印刷は鮮明である。

(2) 文字の大きさ・字間・行間・書体などは適切である。

(3) 判型および分冊が適切になつている。

(4) 表紙・見返しなど図書の各部の表示に欠陥がない。

(5) 本文およびその他の用紙ならびに製本の様式・材料などが適切なものである。

(6) その他の体裁に欠陥がない。

(一〇) (創意工夫)内容、組織、表現その他について、適切な創意工夫が認められるか。

(1) 内容の選択について適切な創意工夫が認められる。

(2) 児童・生徒の心身の発達段階や興味などに対する配慮について適切な創意工夫が認められる。

(3) 組織・配列および分量について適切な創意工夫が認められる。

(4) 表現について適切な創意工夫が認められる。

(5) 使用上の便宜その他について適切な創意工夫が認められる。」

五  教科書検定の手続と運営

1  検定の受理

教科用図書検定の申請は、その著作者または発行者から文部大臣に対してこれをするものと定められている(教科用図書検定規則第三条)ところ、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

文部省は、教科書検定事務の円滑を期するため、教科書発行業者の組織である社団法人教科書協会を通じてあらかじめ検定申請者の意見を徴した上で、通常三か年度(各四月一日より翌年三月三一日までを一年度とする。)にわたる検定実施年次計画を定め、これをその最初の年度の検定受理計画を検定申請者に通知する時期(通常前年の一一月ないし一二月頃)より約六か月前に教科書発行業者に示すこととしている。さらに、初等中等教育局長(本件当時は教科書課長)は、各年度の検定実施に先だち教科書発行者あてに教科書検定申請上の注意事項を書き送つているが、その際原稿の添付書類として、編集趣意書を用紙三枚程度にまとめて提出するよう義務づけている。それは、学習指導要領に示された内容と原稿内容とを対比できるように示し、内容の取材や組織、配列等についてとくに意を用いた点または特色について調査の参考としてほしい事項を記載することになつている。

次に、教科用図書検定規則第四条によれば、教科書の検定は、原稿審査、校正刷審査および見本本審査の三段階を経て完了するものとされ、申請者から提出する原稿は審査の公正を期するため、著作者名あるいは発行者名の記載されていない白表紙のものを提出すべきものとされており、通常これは白表紙本と呼ばれている。

2  審査

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) 原稿調査

「中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(昭和三四年一二月一二日審議会決定)、「昭和三六年度以降使用小学校教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(昭和三四年三月一一日審議会決定)によれば、原稿の調査評定は調査員および教科書調査官が行なうものとされているため、文部大臣より申請原稿について諮問があると、直ちに右両者にそれぞれ調査依頼がされる。申請原稿が社会科のものであつたとすれば、それは社会科担当の全調査官(本件当時一〇名そのうち日本史三名、世界史二名)の調査後、右全員による調査官会議において検討し、その結果を抽せんで各原稿ごとに選ばれた主査および副査の調査官がまとめて、各申請原稿につき一通ずつの調査意見書および評定書を作成する。他方、右同一の原稿につき無作為に抽出された調査員三名(大学教授など専門学識者一名、学校の教員など現場職員二名)が各自一通ずつの調査意見書および評定書を作成する。

(二) 検定合否の判定

審議会は、前記教科書調査官ならびに調査員の調査意見書および評定書(いずれも合計四通ずつ)をもとにして申請原稿を検討し、昭和三四年三月一一日ならびに同年一二月一二日付の前記各審議会決定にかかる内規に従いその合否を判定するのである。それを右内規より引用すれば次のとおりである。

「第1 調査評定について

1 原稿の調査評定は、調査員および教科書調査官(以下調査者という。)が行う。

2 調査員の調査は、同一の原稿に対して、原則として3名とする。

3 調査評定は、教科用図書検定基準(昭和33年12月12日文部省告示第86号)に基き、受理単位ごとに行う。

第2  評定方法について

1  絶対条件の評定方法

絶対条件については、3項目のそれぞれについて「合」「否」のいずれかに評定する。合否のいずれとも決しがたい場合は「?」とする。

2  必要条件の評定方法

第1ないし第9項目については別表1、第10項目については別表2の評定尺度により評定する。

3  総合評定

絶対条件および必要条件の評定結果を総合して全体として「合」・「否」のいずれかに評定する。合否いずれとも決しがたい場合は「?」とする。

第3  合否の判定について

教科用図書検定調査分科審議会は、調査者の調査評定の結果を検討し、次により合否を判定する。

1  絶対条件

(1)  各調査者の評定が、同一の項目に対し、そのいずれも合(または否)であり、これに対して疑義がないと認めたときは、合(または否)とする。

ただし、否(または合)とするに足るじゆうぶんな理由があると認めたときは、調査者の評定にかかわらず否(または合)と判定することができる。

(2)  同一の項目に対する調査者間の評定が不一致のときは、その項目について合否いずれかに判定する。

(3)  調査者が「?」記号を付した項目については、その項目について合否のいずれかに判定する。

2  必要条件

(1)  必要条件の合否を判定するのは、次の基準による。

ア 項目の評定に一つでも「×」記号があれば不合格とし、「×」記号のない場合にはイ以下に定めるところによる。

イ 総点を一、〇〇〇点とし、これを第1ないし第9項目に別表3のとおり配点する。

ウ 第1ないし第9項目の評点を記号に応じて別表4のとおり定める。

エ 第1ないし第9項目の評点合計が八〇〇点以上のものは合格とする。

オ 第10項目の評点は、評語に応じて別表5のとおり定める。

カ 第1ないし第9項目の評点合計が八〇〇点に達しない場合に、第10項目の評定をこれに加えて八〇〇点以上になるときは、これを合格とし、なお八〇〇点に達しないものは不合格とする。

(2)  各調査員の評定を総合平均したものをもつて調査員の評定結果とする。

(3)  調査者の評定結果に対して疑義がないと認めたときは、(1)の基準により合否の判定を行う。

(4)  前号の判定を行うにあたり、調査者の評定に疑義があると認めたときは、疑義があると認めた調査者の評定項目について検討し、その結果を疑義があると認めた調査者の評定とおきかえ、(1)の基準により合否の判定を行う。

3  原稿に対する合格または不合格の総合判定

絶対条件の3項目および必要条件がいずれも合と判定されたものを合格とする。

この場合、原稿に訂正、削除または追加など適当な措置をしなければ教科用図書として不適当と認める事項があるときは、これをA意見として指摘し、これに必要な措置を加えることを条件として合格を認める。

なお、訂正、削除または追加などした方が教科用図書としてよりよくなると認める事項については、申請者に参考までに伝えるため、これをB意見として指摘する。」

なお、右B意見が付された場合、そのなかには、必要条件の各項目に照らし欠陥と認められるが、それを修正しなくても合格と認められるいわゆる「欠陥B」と称されるものと、必要条件に照らし欠陥とは認められないが、修正した方が教科書としてより適当であると認められるので参考意見として付されるいわゆる「ベターB」と称されるものとを含み、B意見は本来これを修正しなくても不合格となることはないのが原則である。しかし、合否の評定に当り、必要条件第1ないし第9項目ごとの項目点を決定する際に、右「欠陥B」については減点の対象となることがあり、すなわち、それが多量にあれば結果的に不合格に結びつくこともありうるのである。

そして、審議会の審議結果は、申請原稿の合格・不合格の判定ならびに右A・B意見の指摘をして文部大臣に対し答申され、同大臣は右審議会の意見を尊重し、原則としてその答申どおり合格・条件付合格(修正指示を含む。)または不合格の決定をするのが通例である。

(三) 理由の告知

前記検定の合格(条件付合格を含む。)ならびに不合格の結果は、文部省より申請人に対しそれぞれ書面をもつて通知されるが、その理由は、条件付合格の場合には、教科書調査官より口頭をもつてA・B意見の付された箇所全部につき逐一告知され、また、不合格の場合には右通知書に検定基準のうち主たる欠陥部分と認められた事項を指摘して告知されるほか、教科書調査官より口頭をもつて具体例をあげながら補足説明を加えることがなされており、右いずれの場合にもその場における申請者側の質問には適宜応答を惜しまず、速記、録音機などの使用も許されている。

(別表1) 第1ないし第9項目に対する評定尺度および記号

大区分

記号

小区分

その項目については適格と認める程度

欠陥がほとんどない。

欠陥が少しあるが大きなものはない。

欠陥がやや多いが,大きなものはない。

その項目については不適格と認める程度。ただし,他の項目に大きな欠陥がなければ全体として合格となることもあり得る。

欠陥が相当多いが,大きなものは少ない。

欠陥が相当多く,大きなものも多少ある。

大,小の欠陥が多い。しかし×と評定するに当らない。

その項目の欠陥だけで他がいかによくても全体として不合格となる。

×

致命的と認める欠陥があつたり,または大小の欠陥がはなはだしく多い。

(別表2) 第10項目に対する評定尺度および評語

評語

区分

創意工夫としては,特に指摘することがない。

部分的に,多少適切な創意工夫が認められる。

良上

良と優の中間程度と判定される。

相当適切な創意工夫が認められ。

優上

優と秀の中間程度と判定される。

かなり広い範囲にわたつて,きわめて適切な創意工夫が認められる。

(別表3) 第1ないし第9項目の配点

(ただし中学校用および高等学校用教科用

図書の検定申請新原稿に適用されるもの)

項目

教科

国語

外国語

上記以外

の教科

取扱内容

120

120

正確性

250

180

内容の選択

140

140

内容の程度等

140

140

組織配列分量

140

140

表記表現

60

160

使用上の便宜等

90

60

地域差学校差

30

30

造本

30

30

1,000

1,000

(別表4) 第1ないし第9項目の評点

記号

評点

項目別

配点の

10割

9割

8割

7割

6割

5割

(別表5) 第10項目の評点

評語

良上

優上

評点

0

10

20

30

40

50

(四) 校正刷審査(いわゆる内閲本審査)

原稿審査において指摘された事項につき、申請者は指摘どおり修正を施し、あるいは自己修正するとか、または指摘事項に従つて修正し難いと認めるときは、これについての自己の意見を表明して文部省の指定する期間内(通常半月ないし一か月)に校正刷審査(教科用図書検定規則第四条)を申請することができる。これを一般に内閲申請と称しているが、同申請原稿には、指摘事項A、指摘事項Bまたは自己修正による修正箇所を明らかにするため、次の各措置をとるよう定められている。

(1)  指摘事項Aによる修正箇所は、修正事項を正しく朱書し、その事項のある頁の上部に「赤色」付せんを貼りつけておくこと。ただし、修正事項が活字以外のものについては、修正を行なつた写真・原画・楽譜等を添えて修正を明示すること。

また、著作者において、指摘事項Aにより難いと認めた事項があるときは、原稿の該当箇所に傍線(赤色)を付して、その頁の上部に「紫色」付せんを貼りつけ、かつ、その事項と修正し難い理由とを文書に記載して、原稿とともに提出すること。

(2)  指摘事項Bによる修正箇所についても右と同様の措置をとり「黄色」付せんを貼りつけておくこと。なお、著作者において、指摘事項に対して意見があるときは、原稿の該当箇所に傍線を付して「黄色」付せんを貼りつけ、その意見を欄外に記載すること。

(3)  前記の指摘事項のほか、著作者が原稿を再検討した結果、句とう点、表記統一・用語統一等形式的な事項について自己修正を加えたいものがあるときは、その箇所にという記号を付して、修正しようとする事項を正しく朱書し、それのある頁の上部に「緑色」付せんを貼りつけておくこと。

校正刷審査は、右の内閲本について主として教科書の内容につき再審査を行なうものであつて、この段階で新たにAまたはB意見が付されることもあるし、右修正箇所につき適切でないと認めて再考をうながすこともある。

(五) 見本本審査

見本本審査は、教科書検定の最終段階部分であつて、内容はもとより表紙、奥付、印刷、造本等全般なものがその対象となるから、申請者より実際の教科書と同一の造本を施したものを提出してその審査が行なわれる。

(六) 救済制度その他

前記不合格処分につき行政不服審査法に基づく異議の申立が許される(同法第六条)ほか、条件付合格の場合には右に述べたごとく校正刷審査の段階で指摘事項により難いことを述べることが認められている。文部大臣は、申請者の指摘した点を再検討の上、自己の付した意見を撤回することもあり、また、指摘事項Aに対して右申立がなされた場合には、審議会の再審議にかけられ、その結果前記指摘意見が撤回されることもある。

そして、叙上の原稿審査に要する期間は、申請原稿量の多寡などにもよるが、通常四か月ないし七か月である。

3 発行・採択

以上の検定に合格した教科書は、官報に検定済教科書として、その名称、著作者の氏名および発行者の住所氏名等一定の事項を公告し(教科用図書検定規則第一二条第一項)、発行者は毎年発行しようとする教科書の書目を文部大臣に届け出るものとし、この届け出に基づき文部大臣は教科書目録を作成して都道府県の教育委員会に送付するものとされている(「教科書の発行に関する臨時措置法」第四条、第六条第一項)。発行者による右届け出は検定合格済図書についてはもちろん、現に検定申請中のものでも原稿審査に合格しているものはこれを届け出ることが認容されている(証人渡辺実の証言)。

都道府県教育委員会は、右教科書目録に基づきそれぞれ教科書展示会を毎年文部大臣の指示する時期に開催する(右臨時措置法第五条第一項)が、発行者は同法第四条による届け出済の教科書にかぎりその見本を出品することができる(同法第六条第三項)。なお、証人渡辺実の証言によると、教科書展示会は毎年七月一日から約一〇日間開催されるのが通例であつて、前記教科書目録はこれに間に合わせるため同年五月頃までに作成されることが認められる。

そして、これらの図書のうちから、採択権者である(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第二三条第六号)各教育委員会によつて教科書の採択がなされるのである。

第三  争点の判断(その一、総論)

一  教育の自由

原告は、現行教科書検定制度は憲法第二六条によつて保障されている教育の自由、なかんずく子供の教育を受ける権利、すなわち学習権、親を含む国民の教育権および教師の教育の自由を侵害すると主張するので、この点につき判断する。

1  教育を受ける権利と親の教育権

憲法第二六条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」(第一項)、「すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ、義務教育は、これを無償とする。」(第二項)と定めている。

本条は、憲法第二五条第一項が国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を基本的な権利として保障しているのに対し、その文化的な側面として国民各自に等しく教育を受ける権利を保障し、その実現の手段として、国民に対しその子女に普通教育を受けさせる義務を負わせる反面、国に対しても立法その他の措置を講ずべき義務を負わせたものである。

(一) この点に関する原告の主張は、おおよそ次のとおりである。

個人の尊厳が確立され、子供の教育を受ける権利が憲法によつて保障されるゆえんのものは、子供の成長発達のため学習の権利が子供の人権として捉えられたことによるにほかならない。子供の学習権は教育を受ける権利の核心をなすものであつて、子供は、公権力によつて制約されることなく自由に自からの成長発達を追求し、その潜在的な可能性を合理的に開花させ、かつ、思想的に自由な国民として育つため、公権力によつて画一化されない教育を受ける自由を有する。そのために、国は、教育内容に対する介入を控えるべきであり、換言すれば、教育の外的諸条件の整備確立についてのみその権能を有するに過ぎないものである。そして、このような考えは近現代の教育原理にも合致するものであり、つとに一八世紀フランス革命期の思想家コンドルセ(A.N.C. Condorcet)ならびに現代のアメリカ教育学者カンデル(L.L. Kandel)が唱道したところであるというのである。

そもそも、教育とは可能性にみちた子供の能力を全面かつ十分に開花させ、子供の人格の完成を目ざして行なわれる営みであり、憲法第二六条の教育を受ける権利の保障は、子供に対しその個人的人格を尊重し、将来民主主義社会の一員となるための人間形成を目ざして自から学習する機会を保障しようとするものであつて、これは子供の自然的権利に属するというべきである。

これに対し、親は本来自己の子女を教育する権利を有するのであり、これは親の自然的な権利であつて、実定法上も「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」(民法第八二〇条)と規定されている。親の教育権は、歴史的には一九世紀中頃まで教育法制上中心的地位を占めていたが、その後、人権思想の普及するに伴い「親権利から親義務へ」と思想的転換を見たのであり、近代教育原理は子供の学習権を教育権保障の中核に置き、これに対する親の義務を強調するようになつた。

(二) 次に、公教育制度の形成過程をみるに、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

一九世紀前半における欧米の近代市民国家の教育制度は、まだ私教育を中心とし、教会の学校支配が依然として強く、日曜学校、教区学校、慈善学校などが主であり、各国とも教会との争いを避けて宗教的私立学校尊重の私教育を温存した。しかしながら、産業革命以後の社会構造の変化は著しく、右世紀後半になると、産業界から労働者にも一定の基礎学力を要請するようになり、併せて折から台頭してきたナショナリズム、社会不安対策などの諸理由から各国は教育を教会中心の私教育制度のまま留め置くことができなくなり、国・公立学校を整備拡充して教育を大衆に開放する施策をとるようになり、次第に公教育制度が確立されるに至つた。

こうして確立された近代公教育における共通の基本原理は、教育の義務制、無償制および世俗化を主軸とするものであつた。かくて、現代では、それぞれの親がその子女に対して自から十分な教育を受けさせ、子供の学習権を満足させることができなくなつたため、親は自身で右責務を果す代りに子供を国または公共団体の営む学校に入れて教育を受けさせることにより教育義務を実現するようになつたのである。

さらに、二〇世紀に入ると、各国の憲法は国民の生存権的基本権を保障するようになり、例えば、ワイマール憲法が「子を教育して肉体的、精神的および社会的に有能にすることは、両親の最高の義務であり、かつ、自然の権利であつて、その実行については国家共同社会がこれを監督する。」(第一二〇条)と規定しているように、教育の権利は親の権利から親の義務へと転化し、子供の教育を受ける権利の保障は確立された。

(三) そこで、公教育における国の立場を考えてみるに、前記認定のことからも明らかなように、国または公共団体の設置運営する今日の学校教育は、親の私事的な子女教育に代つて組織的、機能的に実施される公教育であつて、本来親の教育権と矛盾対立するものではないはずである。のみならず、民主主義国家においてはその存立と繁栄は国民各自の自覚と努力にまつものであるから、教育は国家社会の重大関心事となり、とくに、現代国家は福祉国家として重要な使命のなかに教育の振興を掲げ、次代を担う子供に対し、適切な教育を施し、その健全な心身の発達と能力の向上開発を期するのであり、今や教育の実施普及は公共の福祉中最重要なものの一つである。さればこそ、日本国憲法は、福祉国家の理念を宣明するとともに、その施策の一環として国民の教育を受ける権利を保障し、国に対しその権利を実現するため義務教育をはじめ各種の必要な施策を実施する権限と責務を課しているのであり、また、教育基本法にも、法律に定める学校は公の性質をもつものとされ、教員は全体の奉仕者であると明記されたのである(同法第六条)。

因みに、教育関係の立法として、教育基本法、学校教育法、社会教育法(昭和二四年法律第二〇七号)、私立学校法(同年法律第二七〇号)、義務教育費国庫負担法(昭和二七年法律第三〇三号)、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(昭和三一年法律第一六二号)、「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(昭和三八年法律第一八二号)、「就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律」(昭和三一年法律第四〇号)等があり、国は右各法律に応じた施策をすすめる義務があり、また、市町村は小学校および中学校を設置する義務を負い(学校教育法第二九、第四〇条)、経済的理由により就学困難と認められる学令児童の保護者に対して援助をすべきこと(同法第二五条)が定められている。

(四) 原告は、コンドルセやカンデルの学説を援用しつつ、教育行政は教育の内的事項に関与することは許されず、外的事項についてのみ責務を負うと主張する。そして、〈証拠〉によれば右コンドルセの学説においては、子供を教育する権利は両親の自然権に属し、それは同時に自然から与えられた義務であつて放棄することができないものであること、公教育は家庭教育の延長であり、その機能を有効にするための代替物であり、偏見をなおすための集団化(親義務の共同化)であること、公教育は知育に限定され、内面形成を中心とする徳目には関与しえず、また、公権力の設置する教育機関はいつさいの政治的権威からできるかぎり独立でなければならないし、いかなる公権力といえども新しい真理の発展を阻害し、その公権力における特定の政策や一時的な利益に反するごとき理論を教授することを妨害する権限をもつてはならないことが説かれていることが認められる。しかしながら、〈証拠〉によれば、コンドルセの学説は、フランス革命の激動期に普遍平等の国民教育を唱道したもので、必ずしも今日においてもそのまま通用するものではない(当時においてもその教育案は採用されなかつた。)。のみならず、彼は公教育を国家権力からまつたく独立のものとすることを考えていたわけではなく、最終的には公教育行政権を人民の代表者である議会に従属せしめ、ただ、その具体的運営を国立学士院の権限としているに過ぎない。そして、その理由として「あらゆる権力のなかで、これこそは腐敗するおそれが最も少なく、また個人的な利益で誘惑されることも少なく、さらに知識を有する人々の総意の影響を最も反映し易いものであるからである。」と述べている。また、下級学校において公権力による教科書の選定を認めているなど、コンドルセは必ずしも原告主張のごとく公教育に対する国の関与を排斥しているものとは認め難いのである。

他方、カンデルは、教育を内的事項(Interna)と外的事項(Externa)に区分していること原告主張のとおりであるが、前示乙第六七号証によれば、彼は右区分によつて教育行政を中央教育行政機関と地方教育行政機関の各分担すべき事務とに配分しようとするものであつて、健全な行政制度は中央機関の外的事項の決定と内的事項の地方分権化が相まつて教師の自主的専門職的成長を助長すると述べており、中央政府が教育の内的事項についてまつたく何らの任務をも有しないというものではないこと、カンデルの右思想は一九三三年当時のイギリス教育を対象に記述せられたものであつて、必ずしも今日の公教育にそのまま当てはめることはできないことが認められる。そして、その後の経済社会の発展に伴い高度教育が要求され、次第に中央政府が教育内容にわたる事項の決定に関与せざるをえず、また、教育実践においては教育の内的事項と外的事項とは相互に密接不可分な関連を有し、これを明分することが困難であることを併せ考えると、右諸学説を根拠に教科書検定制度が国民の前記憲法上の権利を侵害するとは断じ難い(なお、教育基本法第一〇条第二項との関係はのちに詳述する。)。

(五) このようにみてくると、現代公教育においては教育の私事性はつとに捨象され、これを乗りこえ、国が国民の付託に基づき自からの立場と責任において公教育を実施する権限を有するものと解せざるをえない。また、かように考えることこそ、憲法前文が「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する。」と宣明している議会制民主主義の原理にもそうゆえんであるというべきである。

したがつて、教科書検定制度そのものは、国が憲法第二六条第一項に定める国民の教育を受ける権利の実現を目ざして行なわれる学校教育制度の一環として学校教育法第二一条第一項、第四〇条、第五一条、第七六条等に基づき実施されるものであつて、その目的とするところは教育の機会均等、教育水準の維持向上ならびに教育の中立性確保などにあるものと認められるから、これをもつて憲法第二六条第一項の子供の教育を受ける権利、同第二項の親の教育権を侵害するものとは解し難い。

2  教師の教育の自由――教育基本第一〇条の解釈

原告は、憲法第二六条および教育基本法第一〇条の趣旨よりして、教師はそれぞれの親の信託を受けて児童・生徒の教育に当るものであるから、教育は専門的知識を有する教師の自主的な判断に委ねられ、教師は公権力により制約されない教育の自由を有し、反面、国の教育行政は教育目的遂行に必要な外的条件整備に限定され、教育課程その他の教育内容に権力的に介入することは許されないと主張する。

ところで、教育基本法は教育の目的として「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とうたい(同法第一条)、同法第一〇条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」(同条第一項)、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」(同条第二項)と定めているので、原告の右主張との関連で検討をすすめる。

(一)  右にいわゆる「不当な支配」とは、政党など政治団体、労働組合その他国民全体ではない一部の党派的勢力を指称し、不当な行政権力的支配もこれに含まれると解する。教師の職務は、学校において日常子供に接し、その教育活動に従事する専門職に属する(教員免許状制度)から、教育は一般行政と異なり、教師の主体的活動がなければ十分な教育効果をあげることはできないのであり、その意味において、教師の自主的な創意と工夫が尊重されなければならないとともに、不当な外部的勢力の支配から独立であることを要するのである。この点につき、昭和二一年来日した第一次米国教育使節団報告書も「教師の最善の能力は、自由の雰意気のなかにおいてのみ十分に発揮される。」と指摘している。したがつて、教育基本法の趣旨とするところもまたここに存することは明らかであつて、行政権の行使といえどもその不当なるときはこの例外ではありえないのである。

しかしながら、さればといつて、公教育の場における教育方法や教育内容に対する国の教育行政が原則として排除され、ただ全国的な大綱的基準の設定や指導助言をなしうるにとどまるとするほど右教師の教育の自由ないし独立が排他的絶対的でありうる筈はないのである。国は、福祉国家として憲法第二六条により教育の責務を遂行するため、法律に従い諸学校を設置運営する義務を負い(学校教育法第二ないし第四条、第一〇六条第一項)、国民全般に対し教育の機会均等、教育水準の維持向上を図る責務を有するから、適法に制定された法令による行政権の行使は、それがかりに教育内容にわたることがあつても、その内容が教育基本法の教育目的(同法第二条)に反するなど教育の本質を侵害する不当なものでないかぎり、右にいわゆる不当な支配に該当せず、許されるものと解するを相当とする。

(二) 次に、教育基本法第一〇条第一項後段に「国民全体に対し直接責任を負つて行われるべきものである。」というのは何を意味するかについて案ずるに、原告は、教師の教育の自由を前提としつつ、これは教育における民主主義原理をうたつたものであり、法律的あるいは行政的な責任を意味するものではなく、国民全体に対する直接的な教育ないし文化責任という意味である。いいかえれば、これは国民の教育を受ける権利を基本にすえ、国民がその子供に教育を受けさせる責任に対応した国民の教育の自由を前提にした上で、教師が直接父母、国民との結びつきのなかで教育を展開していくことを想定しているのであると主張している(原告主張別紙(一二)第五編第三章第六節第三の二(三))。

ところで、〈証拠〉によると、教育基本法を審議した第九二帝国議会に提出された政府の同法案説明参考資料には「教育が国民に対し直接責任を負うというのは、国民と教育との間に不当な夾雑物があつてはならないというのであつて、国の行なう教育行政一般について国民の意思が議会に表明せられ、その議会に対して文部大臣を含めた内閣が責任を負うということを排斥するものでは決してない。」と記述されていることが認められ、この事実に徴すると、右の「国民全体に対し直接責任を負う」というのは、次のように解すべきものと考える。すなわち、本来教育を含む国政全体が国民の厳粛な信託によるものであつて(憲法前文)、公教育における国の教育行政についても民主主義政治の原理が妥当し、議会制民主主義のもとでは国民の総意は国会を通じて法律に反映されるから、国は法律に準拠して公教育を運営する責務と権能を有するというべきであり、その反面、国のみが国民全体に対し直接責任を負いうる立場にあるのである。

他方、国民が教師に対し直接その子供の教育を付託し、その責任を追及しうる方法は現行制度上認められていないのである。したがつて、教育基本法の右文言は、前叙の事実をふまえた上、ただ教育が国民にとり重大事であることにかんがみ、国民と教育との間に中間的な介在を経ないで直結されるべきことを明らかにし、両者の間に特別の親近性が存在することを宣明したに過ぎないものであつて、これは教育者や教育行政関係者の心構えを述べたにとどまり、これから直ちに法的効果が生ずるというものではないと解するのが相当である。

よつて、教育基本法の右文言から原告主張のごとき結論を抽き出すことは困難である。

(三) 原告は、同法第一〇条第二項の意味するところは、国の教育行政は教育の外的条件整備確立をその責務とし、教育内容に立入る権能を有しないことを明らかにしたものであると主張するのに対し、被告は、右の必要な諸条件のなかにはいわゆる教育の内的・外的事項を問わず含まれるから、教育行政が教育課程その他教育内容に立入ることも許されると主張して両者の見解が対立している。

ところで、原告の右主張のごとき学説は、もともとアメリカ教育学者カンデルが一九三三年代のイギリス教育を対象に教育行政を内的事項と外的事項に区分し、前者は地方教育機関に、後者は中央教育機関に分掌せしめるのが健全な教育行政のありかたであると唱道したことにはじまるもので(前記二の四)、わが国の学者でこれに賛同するものも少なくない。

しかしながら、教育における教師の立場は前述のとおりであつて、教育内容から教育行政を排除するほど独占的な地位を有するものはと到底認められないし、また、右のように教育事務を内的事項と外的事項とに区分する立場が今日のわが国における教育実情のもとで必然的なものとも認められないのである。他方、国は公教育たる学校教育を運営し、教育目的を遂行する責務を有するから、教育の機会均等および教育水準の維持向上のため教育全般の制度機構を整備する必要がある。したがつて、右法条項にいう条件整備のなかには教員の固有権限に属する教育実施に関する事項を除き、学校施設、教育財政等の物的管理や教職員人事等の人事管理はもとより教育課程の基準設定、教科書その他の教材の取扱(教科書検定を含む。)等教育内容についての管理運営を包含するものと解すべきである。また、かように解することこそ現行教育法制にも適合するゆえんでもある。すなわち、現行法制上は、教科に関する事項は監督庁(文部大臣)が定めるとされ(学校教育法第二〇条、第三八条、第四三条、第一〇六条第一項)、文部大臣は教育課程の基準として学習指導要領を定めている。また、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によると、教育委員会の権限とされる管理には学校の設置、管理、廃止(同法第二三条第一項)、学校その他の教育機関の財産および職員の任免等人事に関する事項(同条第二、三号)、学校の組織・編成、教育課程、教科書その他の教材の取扱に関する事項(同条第五、六号)ならびに当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務(同条第一九号)も包括的にその権限とされ、学校長は所属職員を監督し、校務をつかさどる権限を有する(学校教育法第二八条第三項)ものと各規定されている。

よつて、原告の前記主張は採用できない。

二  学問の自由

憲法第二三条は国民の基本的権利として学問の自由を保障すると規定しているが、このうちに教育の自由も含まれるか否かは検討を要するところである。

ここでいわゆる学問の自由とは、欧米においていわゆるアカデミック・フリーダム(academic freedom)と呼称されるもので、伝統的な考え方によれば、それは大学などの高等研究機関における教授ないし研究員を対象とするものとされ、学問の自由には学問研究の自由とその研究結果の発表の自由を含むものと解されてきた。ところが、わが憲法第二三条はたんに「学問の自由は、これを保障する。」と規定しているのみで、その対象を明文上限定しているわけではないので、憲法によつて保障される学問の自由は右より広く、国民一般を対象とするものであつて、大学など高等研究機関にかぎらず下級教育機関の教師にも及ぶものと解される。

しかしながら、学問の自由自体は国民一般に保障されるところであるとしても、学問の自由と教授の自由ないしは教育の自由とは必ずしも同一ではなく、大学など高等教育機関においては学問の自由の範ちゆうに教授の自由を含むものと解されうるとしても、それより下級の教育機関についてはその教育の本質上一定の制約を伴うことのあるのは当然であつて、両者を別異に考えても学問の自由の本質に反するものではない。

例えば、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)基本法第五条第三項は「芸術および学問、研究および教授は自由である。」と保障の規定を設けているが、右にいう教授の自由とは教育の自由と同一ではなく、大学における教授の自由を意味し、例えば国民学校の教員が教育を行なう場面には適用されないと一般に解釈されている。そして、この解釈の条理的根拠としてあげられているのがドイツの大学における「研究と教授の一体性」という原理である。つまり、そこで考えられている教授は専門的な学問研究の自由な発表にほかならず、それは学問認識の媒体であり、研究の補充作用として観念されてきたのである。

この点につき、最高裁判所の判決(昭和三八年五月二二日大法廷判決、刑集一七巻四号三七〇頁)は次のように判示している。すなわち、憲法第二三条の学問の自由は、学問研究の自由とその研究結果の発表の自由を含み、学問の自由の保障はすべての国民に対しそれらの自由を保障するとともに大学が学術の中心として真理探求を本質とすることから、とくに大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨とする。教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するが、必ずしもこれに含まれるものではない。しかし、大学については憲法の右の趣旨と学校教育法第五二条(大学の目的)に基づいて教授の自由が保障される。大学における学問の自由を保障するため伝統的に大学の自治が認められている。大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学業を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味するものと解されるというのである。

わが憲法の保障する学問の自由は本質的には以上のとおりであつて、下級教育機関における教育の自由を含まないものと解されるについては、前記理由のほかに下級教育機関における教育の本質にも由来するものである。そこでは、教育の対象が心身の発達が十分ではない児童・生徒であり、しかもその教育は普通教育であつて教育の機会均等、教育水準の維持向上を図るため適当な範囲における教育内容、教材、教授方法等の画一化ならびに教育の中立性確保が必然的に要請されること、大学の学生と異なり児童・生徒は十分な批判力もないから、その発達段階に応じた慎重にして適切な教育的配慮が必要であつて、あくまでも教室は教師が自からの学説、研究の結果を主張、発表する場ではないことなどが教育の自由を制約する要素となつており、下級な教育機関ほどその制約も強まることが容認されるのである。

そして、学問の自由ならびに教育の自由に対する右のごとき考えは、学校教育が真理の伝達を使命とし、学問的成果に依拠すべきことと何ら矛盾するものではなく、右下級教育機関において使用すべき教科書について検定制度を実施しても憲法第二三条に違背することにはならないものというべきである。

三各国における教育の自由

原告は、その主張するような教育の自由が認められるのは最近の世界的傾向であると主張するので検討する。

1  ILO・ユネスコ勧告

昭和四一年(一九六六年)一月ILO・ユネスコ合同の専門家会議において「教員の地位に関する勧告」の最終的案文が作成され、次いで同年九月二一日ないし一〇月五日のパリーにおけるユネスコ特別政府間会議において右勧告が採択され、次いで、同年一一月一八日ILO理事会はこれを承認し、同月末のユネスコ総会において採択されたことは当事者間に争いがない。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

ユネスコにおける右勧告はその前文において「国は教育の進歩における教員の基本的な役割ならびに人間の開発および現代社会の発展への彼らの貢献の重要性を認識し、教員がこの役割にふさわしい地位を享受することに関心を持ち……」と述べ、その六一項は「教職者は職業上の任務の遂行にあたつて学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するため格別に資格を与えられたものであるから、承認された課程の枠の範囲内(within the framework of approved programmes)でかつ、教育当局の援助のもとで、教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて主要な役割を与えられるべきである。」と述べている。たしかに、これは教師の職業上の自由をより大きなものとし、その役割と地位につき一つの方向を示唆するものではあるが、右勧告は「学問上の自由」の内容について定義されていないため、これをたんに教育方法に関するものだけと限定して解される余地が十分あり(一九七〇年四月二七日ないし五月八日の教員の地位に関する勧告の適用についてのILO・ユネスコ合同専門委員会報告書によると参加国のうちいくつかはそう解釈している。)、また、同報告書によると、参加国七四か国のうち三七か国は教授要目、教科書および教育方法等に関する教員の職業上の自由につき一定の制限を設けており、右勧告案の採択に当つても議論が分れ、結局前記のように「承認された課程の枠の範囲内で」とか「教育当局の援助のもとで」という文言が挿入されるに至つたものである。

そうしてみると、それはあくまで将来に対する一つの指針として受け取るべきものであり、現実的採用の可能性は各国の政治的、財政的、文化的諸事情にかかつているというべきであるから、これをもつて実定法上の解釈原理とすることは相当ではない。

2  OECD教育調査団の報告書

昭和四五年一月OECD(経済協力開発機構)教育調査団が来日し、その調査結果を「日本の教育政策に関する調査報告書」として公けにしたことは当事者間に争いがない。

〈証拠〉によると次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

右報告書は日本の教育について「価値を育てる教育と教育による政治的教化とは、はつきり区別することができる。教育でこの二つの用法を混同するならば教育における画一性と多様性との均衡を保つという困難な仕事は一層むずかしくなる。例えば学校には一定の活動を保障しながらも社会的結合を保つていくといつた程度の画一性は必要とされる。しかし半面、この画一性が中央政府の手で行なわれる場合(とりわけ一つの政党が長期にわたつて政権を独占している国では)、政権の座にある政府がその支配の永続化を図るため服従を強いるおそれがある。このような場合には政府も野党もともに教育を政治的教化の手段とみなし、多様な価値を受容する能力をもつた人間を育てるという共通の目標はそこなわれることになろう。最近は学習指導要領と教科書検定制度をめぐつて議論がかわされている。この背後にあるのは以上の問題にほかならないが、その際日本政府の立場は多様性を犠牲にして画一性を強調しているように思われる。」、「文部省は、次のような権限をもつている。(一)各教科における学習指導要領を決める権限をもつている。また、その権限は詳細な点まで指示するようになつており、教育課程に変化を与えようとする教師の自由は制限されている。(二)使用されるすべての教科書に対して検定認可の権限をもつている。この権限は歴史のような教科にかかわる場合に、画一的な政治的価値を押しつけるという危険をはらんでいる。また、近代社会の必要にこたえようとするなら、教育の内容や方法を改善するためにいろいろな工夫や実験を行なわねばならないが、中央集権と画一主義はこうしたことの大きな妨げとなつている。このようにして教育内容のなかの価値に関するものを支配しようとする考えは、純粋に教育的立場からみると、たいへん大きなマイナスをもたらすことになる。」と述べ、今日のわが国における教育上の最も困難な問題点を率直に指摘している点は傾聴に値するが、もともとOECDは欧州自由諸国を主体とし、域外の正式加盟国は日本、アメリカ合衆国およびカナダのみであり、その間にかなり国情の相違があるのみならず、右調査報告書は後日OECD教育委員会において教育政策検討会を開催する際の素材とするため日本の教育政策を対象に取り上げたものであつて、改善を求める勧告の性質を有するものではない。また、同報告書は主として高等教育に関するものであり、初、中等教育に関してはむしろ「われわれは自分たちの国にくらべ初、中等段階での日本の成果がいかに大きいかに深く印象づけられた。(中略)とりわけ、初、中等教育についていえば、日本の人々に役立つようなことをこちらから指摘したり、示唆するよりも、むしろわれわれ自身の方が学ぶべき立場におかれているのではないかというのが調査団の一般的な意見であつた。」と述べている。

右報告書は以上のごとき性質のものである上に、教育制度については加盟国間にかなりの差異がみられ、例えば、カリキュラムについてはアメリカ合衆国を除くほとんどの国が大綱を法律によつて規定し、中央当局によつて決定される一般的な教授要目に従いカリキュラムに適合した教科書を書き、補助教材を作成するものとされている。

3  諸外国の教育法制

諸外国の教育法制を概観すると次のとおりである。

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) イギリス

一九四四年教育法によると、教育行政が地方分権化され、中央官庁たる文部大臣はこれに直接関与しない。教育内容、方法および学校運営は校長に委任されるが、地方教育当局は校長を監督し、地方教育当局の教育長の任命には文部大臣の承認を要する(同法第八八条)とともに、文部大臣は教育当局に対し広範な指揮命令権を有し(同法第一条)、これに従わなければ補助金の削減や打切りも可能である(同法第一〇〇条)。そして、公私立学校において宗教教育および集団礼拝を必修とし(同法第二五条)、国王直属の勅任視学者が約五〇〇名もいて教育内容から学校経営まで学校・カレッジおよび地方当局へ助言し、その旨を文部大臣に報告するのが任務とされる。

また、次のような各種の試験制度は同国教育制度の特色をなすものの一つである。

(1) 一一才(イレブン プラス)試験初等学校修了者が中学校(グラマースクルー・テクニカルスクール・モダンスクールの三コースがある。)へ進学する際受験する。

(2) 普通教育資格取得試験(G・C・E)この受験資格は中等学校第五学年に在学し、年令が一六才に達した生徒であることを原則とし、主として大学進学希望者が最少限の資格をうるために受験するものである。

(3) 中等教育資格免状試験(C・S・E)これは大学に進まず就職を希望する平均以上の能力のある中等学校第五学年の生徒またはこれを修了した年令一六才以上のものが受験資格を有する。

このような英国の試験制度は、実際にはその試験内容の範囲と程度が公示され、これが学習の目的とされるために事実上イギリスのカリキュラムを規制する結果となつている。

(二) フランス

フランスの教育行政はすこぶる中央集権的色彩が強い。すなわち、国公立学校の教師はすべて公務員であつて、公立学校の監督および私立学校の統制は文部大臣とその代行者である大学区総長、大学区視学官その他の視学官によつて行なわれる。

文部大臣は、教育行政につき左の権限を有する。

(1) 正教授を除く高等教育、中学教育、実業教育の教職員の大部分の人事

(2) 各段階の学校教育の目的の設定と変更

(3) 教育課程と教育方法の決定

(4) 公立教育機関に関する管理法規と服務規律の制定

(5) 私立教育機関の監督

(6) 学校および教員の各試験ならびに受験に関する規定の制定

(7) 補助金交付の決定

(8) 人事に関する規定の制定

フランスの視学制度はきわめて組織的であつて、視学制度の最頂点には督学官があつて大部大臣を直接補佐し、大学区視学官があり、その下に初等教育視学、幼稚園視学があり、いずれも文部大臣の任命になるものである。これらの視学官の任務は、教職員の指導監督のほかその成績評価をも含むのである。

そして、教科書は次の手続によつて選定される。

(1) 国公立学校(例を小学校にとる。)では、一九一四年二月の教科書の選定に関するデクレ(わが国の政令に当る。)により、学区視学官を委員長、初等視学官、師範学校長および教授、初等教育会議の代議員である二名の教員、県教育会議の指名するカントン(郡)の代議員から構成される委員会において選定されたリストに登載されたもののなかから教科書を採択しなければならない。

(2) 私立学校には右デクレの規則は及ばないが、一定の禁止書目にリストされたものは採択できない。

(3) 一八八〇年二月二七日付法律により、文部大臣は国民教育審議会の意見をきいた上で道徳、憲法および法律に反する図書を学校の教科書として使用することを禁止しうる権限を与えられている。

(三) 西ドイツ

同国基本法第六条第二項は「子供の育成および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行にたいしては、国家共同社会がこれを監督する。」とし、同法第七条第一項は「全学校制度は国の監督を受ける。」と規定している。そして、国内の教育に関する事項をラント(州)の任務としているので、わが国の文部大臣に当る連邦の機関は存在しないが、各ラントの文部大臣によつて構成される常設文部大臣会議が設けられ、これが連邦全体にわたる最高の決定機関である。初等中等諸学校の教育課程に関する原則は各ラントの文部省によつて決定される。各ラントの文部省は教授計画(Bildungsplan)を制定し、省令として公布し、すべての学校に対し各学年の必修および選択教科とその授業時数、教授目標と範囲、扱われる教材などを指示している。これはわが国が学習指導要領に匹敵するが、法的拘束力を有し、視学官は各学校におけるこの原則の適正な実施を監督する。そこで、教科書についても各ラントの交部省による検定が実施される。文部省は検定委員会の決定により合格とされた教科書目録を作成し、これを各ラント内の学校に配布し、各学校では同目録中より教科書を採択する。右検定手続は各ラントにより若干の相違はあるが、例えば、ザクセンでは検定委員会は委員十数名よりなり、その下で一原稿につき現場教師と大学教授各一名による調査が行なわれる。そして、検定は内容の正確性と政治的立場の二つに重点が置かれている。

もつとも、第二次大戦後合議制学校管理方式が法制化され、職員会議が教育の内的事項を決定し、校長が執行機関となり、両者に紛争が生じたときは学校監督庁が裁定し、教員側はこれに異議申立ができることとされた。

(四) アメリカ合衆国

アメリカ合衆国では連邦憲法修正第一〇条の規定に基づき教育に関する事項は州の権限とされ、教育課程(コース・オブ・スタデイ)の編集権は州に属する。しかし、州当局の教育課程への関与の程度方法は各州によりかなり相違し、教育課程の大綱のみを州が決定し、細目を地方教育行政機関または学校へ委ねるものもある。反面、ニューヨーク州のように愛国的および市民的奉仕ならびに義務の精神を昂揚させ、平時および戦時に国民としての義務を遂行すべき覚悟ができるようにするため、愛国主義教科内容の作成を指示するもの、その他共産主義が連邦憲法の政治原理に反することやアメリカ史の教育を法的に義務づける州も少なくない。

次に、教科書制度は、わが国と比べて教科書への依存度が低く(いわゆる教科書を教えるのではなく、教科書で教える。)、教科書の出版自体は多く民間会社に委され、州はその選択に関与するのみであるが、各州で採択方法は異なり、各学区ごとに自由採択を許すのはニューイングランドなど西北部二〇州、州単位で採択するところは南部二六州などと分れている。そして、いずれの場合も教科書は州または学区が買い上げて児童・生徒に無償で貸与されるが、一冊の本は少なくとも四、五年は継続して使用される。

以上のようにみてくると、わが国と欧米の教育行政ならびに教科書制度は、相違点のほかに比較的類似する点もかなり認められる上、各国の制度はそれぞれ歴史的、社会的背景に由来するのであつて、一概にいずれを是、いずれを非とも論じえない面があり、わが国の現行教科書検定制度が前記諸国に比較して不当に面一主義を強制し、あるいは国民の教育に関する諸権利を侵害するおそれの強いものとは認められないのである。

四  表現の自由

1原告は、国民の一人として公権力による制約を受けることなく、教科書を執筆し、出版する自由を有すると主張するので、この点につき判断する。

思想表現の自由を保障することは、民主主義に不可欠の基本的要素であつて、近代国家はいずれもこれを基本的人権として保障しているが、ここに至るまでには人類の貴重な歴史的経過があつたのであり、ことにわが国は終戦前まで思想統制により表現の自由が厳しい制限を受た体験を有するのであるから、再びこの轍を繰り返さないよう十分目覚することが望まれるのである。憲法第二一条第一項が「集会結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と定めたのも右趣旨によるのであつて、さらに、同条第二項において「検閲は、これをしてはならない。」との規定を設けたのは、かつて思想言論の自由を禁圧する手段として検閲が濫用された事実にかんがみ、とくに設けられたものと思われる。右にいわゆる検閲とは、主として出版、映画および演劇等についてその発表の事前に公権力をもつてその内容をあらかじめ審査し、不適当と認められるときはその発表を禁止する制度であると解される。

ところで、被告は、本件教科書検定は教科書としての使用の制限に関する事項であり、これは憲法の保障する表現の自由にかかわる問題ではななく、換言すれば、教科書検定は行政庁(文部大臣)が特定の著作物につき教科書としての資格を付与するところの一種の特許行為であり、これは行政庁の自由裁量に属することがらであつて、検定申請者にかかる特権の付与を求める権利が存するわけではないのみならず、申請者は申請図書が教科書検定に不合格となつても、当該図書を教科書として出版使用することが認められないのみであつて、これを一般市販図書として出版発行することは毫も禁止されるところではないから、教科書検定は憲法上の表現の自由とは関係のない個別の制度であると主張する。

2(一)  教科書検定の法的性質については学説が分れ、大別すると次の三つがある。

(1) 確認行為説 教科書検定は、申請図書について検定基準に照らして検査し、それが基準に合致していると認められる場合に公けの権威をもつてこれを認定する行為である。

(2) 特許行為説 教科書検定は、書籍一般のなかから教科書として適格性のあるものを認定して、これに対し一般の図書が本来は有しない教科書としての資格を新たに付与するものであつて、いわばこれにより一種の特権を与えるものである(本件被告の主張はこれに属する。)。

(3) 許可行為説 教科書の発行は国民各自の出版の自由に含まれる基本的権利であり、教科書検定は法令によるこの自由の一般的禁止を特定の場合に解除する許可行為である(本件原告の主張はこれに属する。)。

そこで案ずるに、表現の自由は民主制の根幹ともいうべき国民の重要な基本的権利であつて、これが憲法上の保障は後記のごとく内在的な制約および公共の福祉による最少限度の合理的な制限に服するほかみだりにこれが制約を被ることのない強力なものであることにかんがみ、教科書検定は、その制度的存在理由、機能ならびにその運用面等において、国民の本来有する右自由と少なくとも民主主義原理の上で両立しうるように調整されたものでなければならないものというべきである。

そして、かかる観点からすると、教科書検定は前記(第三の一の1(三)参照)のごとく、現代公教育において国が児童・生徒に対して必要かつ適切な教育を施し、教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るという教育的配慮から検定権者(現行法上は文部大臣)にその権限が与えられているものであつて、このかぎりにおいて国民の有する一般的な表現の自由が抑止されている場合であると解するのが相当である。したがつて、このような立場から教科書検定の法的性質を捉えるならば、これに関する右諸説のうち(2)の特許行為説は検定権者がその固有の権利として教科書の出版・発行に関する絶対的権限を有し、これを検定申請者に対し分与するものであるように解されるので妥当ではない。

他方、教科書検定手続を分析的に観察すると、確認行為的面もないわけではないが、教科書検定自体を確認行為とみるのは、検定当局が客観的な検定基準に照らして一義的にその適否を確認判断するにとどまりまつたく裁量の余地を残さないものなら格別、現行教科書検定が検定基準たる前記絶対条件ならびに必要条件の各項目にみられるごとくそれ自体検定権者にその教育専門的配慮による裁量権が予定されているものと解される(もとより一定の客観的制限の範囲内においてであるが。)ことと矛盾する結果となるので、前記(1)の確認行為説も妥当ではなく、結局、教科書検定申請につき教科書としての発行・採択を許可する制度であると解する((3)説)のが相当である。

(二)  現行教科書検定の検定基準は、学校教育法第八八条、第一〇六条第一項に根拠を有する文部省令たる教科用図書検定規則に基づき、文部省告示として公布されたものであつて、法的拘束力を有し、たんに検定申請者に対し検定合否の基準となるばかりではなく、検定権者に対しても自縛的作用をいとなむというべきである。

そして、右検定規則第一条第一項は「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする。」と定め、検定基準の絶対条件および必要条件の内容が前記(第二の四)のとおりであること、昭和三七年度本件教科書検定での不適切箇所(被告主張の別紙(一八)記載の整理番号1ないし323・以下この整理番号による。)および昭和三八年度本件教科書検定の修正意見箇所(原告主張別紙(一)記載の整理番号1ないし14、整理番号重1ないし20・以下この整理番号による。)の各内容記載ならびに〈証拠〉を総合すると、本件教科書の各検定は、その申請図書の各記述内容にまで立ち入らなければこれを十分審査し、その合否の判定をすることが不可能であつて、現実にそのように運用実施されており、たんに原稿の誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りないしは造本その他の技術的事情にとどまるがごときものはではないことが認めら、他に同認定に反する証拠はない。

そして、検定不合格の結果は、教科書として使用することができないのみならず、補助教材その他いかなる名目、手段によつてもこれを教材として使用することを禁止されている(昭和二三年八月二四日発教第一一九号文部省教科書局長通達)。

3そこで、前叙のごとき実体を有する現行教科書検定が果して憲法の保障する表現の自由を侵害するものであるか否か、つまり憲法の検閲禁止の規定に牴触するか否かについて判断する。

(一)  教科書検定が申請図書につき教科書として発行・採択することを許可する行為であることは既述のとおりであるから、当該申請図書は教科書検定に合格することによりはじめて教科書として発行・採択されうる資格を取得するものであつて、国民は一般的な表現の自由を有することから直ちに文部大臣に対し特定の著作物につき数科書として出版・採択することを認めるよう要求しうる権利まで有するものではないことが明らかである。

他方、国民は既に一般市販図書として出版・発行している図書を教科書として検定申請することにつき現行法制上何らの制限も受けないのであり、また、検定申請図書が検定不合格となつた場合でも、当該図書が教科書として出版・使用することが許されないだけであつて、これを一般市販図書として出版・発行することはまつたく自由である(このことと、その図書がよく売れるかどうかとは別個の問題である。)。

このように見てくると、教科書検定は思想審査を本来の目的とするものでもなく、また、あらかじめ審査する制度でもないから、思想審査を主眼とし、出版物等の事前抑制を本質とする憲法第二一条第二項にいわゆる検閲には当らないものというべきである。

(二)  加うるに、表現の自由といえども決して無制限のものではなく、内在的制約ならびに公共の福祉による合理的な制限はまぬかれえないのである。ただ、右制限はいずれも表現の自由を主張することが他の各種の社会的価値や要求と衝突する際にこれが調整のため主としてことがらの重要性を比較衡量の上決すべきものであつて、その制限は必要最少限の合理的範囲にとどめられるべきは当然である。かような観点から現行教科書検定制度をながめるならば、この制度は、国が福祉国家として児童・生徒の発達段階に応じ、必要かつ適切な教育を施し、教育の機会均等と教育水準の維持向上という国に課せられた責務を果すために、その一環として前記法令に基づき実施するものであるから、その実施に当り申請図書の記載内容に立ち入つて審査し、その結果によつて合否を判定することにより、著作者の教科書執筆の自由、すなわち出版の自由を制限する結果を招来することがあつても、当該検定実施の具体的な運用が前記各法令の趣旨に則した合理的な範囲にあるかぎり、それは公共の福祉による制限として忍受すべきものといわざるをえない。

(三)  ただこの際、国の教科書検定関係者は次のことを十分留意すべきである。

戦前教科書検定が思想統制ないしその一環としての教育の画一化方策の具に供されたことは否定できない事実であり、現行教科書検定制度のもとでも、教科書とくに日本史をはじめ歴史教科書については、政治的イデオローギーや価値観の相違から史観ならびに学説の対立抗争が顕著である。されば、教育基本法がとくに教育の政治的中立を宣明している(同法第八条)ゆえんもここにあるのであつて、教科書検定制度において前記のごとくこれをたんに文部大臣の専権にのみ委ねることなく、右検定は審議会の答申に基づいて文部大臣がこれを行なうものとし、その立場の公正を制度上保障しているのである。

それ故に、文部省当局の検定関係者は事に当るに厳正中立を旨とし、いやしくも独断恣意に陥ることなく、あるいは教育的配慮を強調する余り必要以上に著作者の教科書出版の自由を制限することのないよう厳に戒心すべきはもとより、本来教科書検定は教科書として不適合な図書を排除する(原稿の記述が欠陥とされる場合と一定の記述を欠くことが欠陥とされる場合とがある。)という、いわば消極的使命を本質とするから、表現の自由に対する関係では謙抑的な態度を持すべきである。

以上の観点から、のちに指摘する本件の争点となっている具体的な不適切箇所ならびに修正意見箇所につき、それぞれ本件教科書検定が右限度を逸脱し原告の教科書出版の自由を不当に侵害している事実の有無を検討することとする。

五  適正手続の保障

原告は、現行教科書検定制度は国民の表現の自由、学問の自由および教育の自由など基本的人権にかかわる行政処分であるのにその手続的保障規定が整備されていないので、憲法第三一条に違反すると主張する。

憲法第三一条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定しているが、同条はアメリカ合衆国憲法修正第五条の「何人も法の正当な手続(due process of law)によらなければ生命自由および財産を奪われることはない。」という規定ならびに修正第一四条の「州は何人に対しても法の正当な手続によらなければ、その自由、生命、財産を奪うことはできない。」という各州に対する制約規定のいわゆる適正手続の原則に由来するものであることは明らかである。しかしながら、第三一条の文言は「刑罰を科せられない」とし、また、刑事手続に関する憲法第三二条以下の規定の冒頭に置かれていることにかんがみると、憲法第三一条は主として刑罰権の発動に関し人身の自由の基本的原理として設けられたものと解すべきであり、これが行政手続に適用されるとしても、個人の生命、身体、財産に対し刑罰類似の制裁を科する手続にかぎり適用されるものと解すべきであり(最高裁昭和四一年一二月二七日大法廷判決民集二〇巻一〇号二三七九頁)、本件教科書検定手続のごときには適用をみないのであるから、原告の前記主張は理由がない。

六  法治主義

1  教科書検定制度の法的根拠

原告は、教育については戦前の勅令主義を改め、憲法第二六条も法律によるべきことを明示しているのに、現行教科書検定制度は、教科書検定とは何か、いかなる基準、手続でなされるのかなどについてまつたく法律の規定を欠き法治主義に違反すると主張するので、この点につき判断する。

近代国家においては、一方において国民の基本的人権の尊重を宣明するとともに、国民の権利、自由を制限するような公権力の行使は国会によつて制定された法律に従つてなされなければないとする法治主義ないしは法の支配が確立された原理となつている。わが憲法が法治主義原理を基盤とすることは、同第四一条、第一三条の規定の趣旨からも窺われるところである。

たしかに、現行教科書検定制度について正面から明文をもつて検定の内容、基準、手続等を定めた法律の存しないことは原告の指摘するとおりである。そして、現行法上文部大臣の教科書検定権限の根拠ならびにその手続等を定めた法規は、ほぼ次のとおりである。

(一) 学校教育法第二一条第一項は「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、中学校(同法第四〇条)、高等学校(同法第五一条)およびこれらに準ずる盲学校等につき(同法第七六条)それぞれ右規定が準用されている。

(二) 同法第八八条は「この法律に規定するもののほか、この法律施行のため必要な事項で、地方公共団体の機関が処理しなければならないものについては政令で、その他のものについては監督庁が、これを定める。」とし、右監督庁は同法第一〇六条第一項により文部大臣とされている。

(三)(1) 文部省設置法第一項は「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基く命令を含む。)に従つてなされなければならない。」と規定し、同項第一二号の二は「教科用図書の検定を行うこと。」と定めている。

(2) 同法第八条本文「初等中等教育局においては、次の事務をつかさどる。」とし、その第一三号の二は「教科用図書の検定を行うこと。」と定めている。

(3) 同法第二七条は「本旨に次の表の上欄に掲げる機関を置き、その設置の目的は、それぞれ下欄に記載するとおりとする。

種類

教科用図書検定調査審議会

目的

検定申請の教科用図書を調査し、及び教科用図書に

関する重要適項を調査審議すること

前項に掲げる機関の分科会、同部組織、所掌事務及びその他の職員については、他の法律(これに基く命令を含む。)に別段の定がある場合を除くほか、政令で定める。」と規定している。

(四) 「教科書の発行に関する臨時措置法」第二条第一項は「この法律において『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であって、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と定めるいる。

(五) 学校教育法第八八条、第一〇六条に基づき次のものが定められている。

(1) 教科用図書検定規則(文部省令)

(2) 教科用図書検定基準(文部省告示)

(3) 学習指導要領(文部省告示)

(4) 教科用図書検定基準内規(初等中等教育局長通知)

(5) 文部省組織令(政令)

(6) 文部省設置法施行規則(文部省令)

(7) 教科用図書検定調査審議会令(政令)

(8) 「小学校用、中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判決に関する内規」(教科用図書検定調査審議会決定)

以上が現行教科書検定の根拠法規とされるものである。

ところで、法律による行政を標榜する法治主義といえども絶対的なものではなく、本来国民の権利や自由を保障するための近代的統治原理の一つであるがら、国民の権利や自由を侵すおそれがなく、かつ、国民福祉行政上の合理的必要があるような場合には、一定限度でこれが緩和されることまで禁ずるほど固定的なものではないと解される。したがつて、今日のごとく社会機構の変化に伴い急速に複雑、膨大化した行政組織のもとでは、行政の合目的ないしは能率的運営の要請から一定の範囲で緩和されうるものであり、その限度は一般的には法律に委任の明文がある場合のほか法律に相当の根拠規定を有する場合にかぎり認められるものと解すべきである。

果してそうであるならば、現行教科書検定制度においても、文部省設置法のような行政庁の組織に関する法律または「教科書の発行に関する臨時措置法」のようにたんに教科書の定義を明らかにしたものは別としても、学校教育法第二一条第一項、第四〇条、第五一条および第七六条は、文部大臣に同法所定の教科書検定に関する実施権限を与えたものと解するのが相当であるから、前記のごとく、現行法上教科書検定とは何か、その基準、手続等について正面からこれを規定した明文の法律は存しなくても、少なくとも学校教育法の右諸規定が前示の意味における根拠規定たりうるというべきである。

してみれば、現行教科書検定制度は学校教育法の右規定を根拠とし、これにつき前記(一)ないし(五)の各法律、命令その他の規定が整備されている以上、これを原告主張のごとく憲法体制下の法治主義の要請に違背するものと論難するのは当らない。

2  学習指導要領の拘束力

学習指導要領は、文部大臣が学校教育法第二〇条、第三八条、第四三条、第一〇六条、同法施行規則(昭和三三年八月二八日文部省令第二五号による改正後のもの・以下同じ。)第二五条、第五四条の二、第五七条の二に基づき、教育課程の基準としてこれを定め、文部省告示をもつて公示したものである(本件検定に適用されたのは昭和三五年一〇月一五日告示のもの)。

昭和三三年右改正以前の学校教育法施行規則第二五条は「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱については学習指導要領の基準による。」と規定していたが、現行の同規則第二五条は「小学校の教育課程については、この節に定めるもののほか、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。」(高等学校については同第五七条の二)と規定しているところ、被告は学習指導要領には法的拘束力があると主張し、実際の行政解釈もそのようである(昭和三三年八月一日改正指導要領説明会での質疑応答における内藤誉三郎初等中等教育局長の説明)。

ところで、昭和二二年当初の学習指導要領は「試案」と明記され、教師に対する手びきとして出されたものであつた(昭和二六年改訂版も同様)が、右施行規則の改正に伴い学習指導要領が文部省告示として公示されたけれども、このこと自体は何ら学習指導要領の法的拘束力の根拠となりうるものではない。けだし、告示は法令等行政措置の公示形式に過ぎず、この形式がとられたことから学習指導要領に法的拘束力が付与されたものとは到底解されえないからである。しかしながら、本件教科書検定当時の学習指導要領(高等学校用昭和三五年改訂のもの・乙第八号証)によれば、その内容は第一章から第三章まで総体三八八頁よりなり、第一章において教育課程の編成、内容等に触れ、第二章において各教科科目ごとに各目標、内容、指導計画作成および指導上の留意事項について述べて述べているが、社会科第3日本史についていえば、約五頁にわたり記述されているに過ぎず、その程度もいまだ大綱的基準を示すにとどまり、各教師がその創意工夫により適切な教育活動を行なう余地は十分あるものと認められる。

したがつて、学習指導要領の有するそれ自体の拘束力はともかく、現実にはこれが検定基準として織り込まれることにより、少なくともその限度で法的拘束力を有することは明らかである。

3  手続的保障

教科書検定制度のごとき行政手続には、適正手続の保障を定めた憲法第三一条の適用をみないこと前記のとおりであるが、教科書検定は国民の基本的人権である表現の自由に重大なかかわりをもつものであるから、右検定権限の行使はたんに実体的に正当であるばかりではなく、手続的にも、公正さが制度的に担保されなければならないというのが憲法体制下の法治主義の要請であると解する。しかし、それが具体的にいかなるものであるべきかは、当該行政行為の目的、性質、これによる規制をうくべき権利や自由の性質など具体的事情を斟酌して各別に定めるほかない。

そして、現行教科書検定については、前記のごとく、教科書検定機関の組織(第二の三)、検定基準(第二の四)が具体的に定められ、その内容は一般に公示されている。のみならず、検定の手続と運用についても、社団法人教科書協会を通じてその意見を徴した上検定実施年次計画をたて、これに基づく検定受理計画ならびに検定申請上の注意事項についてもあらかじめ教科書発行業者に通知されていること、検定審査の公正を保つため審議会が設置され、文部大臣の検定合否の決定は原則として同審議会の答申どおりに行なわれていること、右審議会委員およびその調査補助者である調査員はそれぞれ一般人のなかから選ばれ、その調査、評定ならびに合否判定の手続に関しては審議会内規が定められていること、検定結果の通知およびその理由告知、校正刷審査の際における色分け付せんによる意見開陳の各手続ならびに原稿審査には通常四か月ないし七か月の期間を要すること、また検定不合格処分については行政不服審査法による異議申立が可能であることについては、いずれも前記(第二の三、五)のとおりである。

そうすると、現行教科書検定制度は、その当事者に対する告知、聴問など手続保障の的面で欠けるところはないものというべきである。

もっとも、検定基準が必ずしも一義的ではなく、かなり包括的であり、審議会の委員、調査員などが文部大臣によつて任命されるものであること、審議会の合否判定の資料となる評点の算出方法が必ずしも明確ではないなど将来解決されるべき問題点もないわけではないが、これがために現行教科書検定制度の公正さが手続的に担保されていないものとまではいえない。

第四  争点の判断(その二、各論)

一  本件各教科書検定の経過

1  昭和三七年度検定

三省堂から昭和三七年八月一五日原告の著作にかかる「新日本史」五訂版の検定申請がなされたが、文部大臣は、これを不合格処分とすることを決定し、昭和三八年四月一二日文部省に出頭した原告および三省堂社員らに対し、教科書調査官渡辺実、同村尾次郎、同貫達人の三名を通じて同省初等中等教育局長福田繁作成名義の同月一一日付不合格決定通知書を交付したことは、前記(第一の二の2(一))とおりである。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) 審査

審議会の社会科担当の委員は総員一五名よりなり、文部省社会科担当の教科書調査官は総員一〇名で、そのうち、日本史担当の調査官は渡辺実、村尾次郎および貫達人の三名であり、本件教科書原稿については抽せんにより渡辺調査官が主査、村尾調査官が副査と決定した。本件申請原稿「新日本史」五訂版には受理番号「七―二〇五」が交付され、直ちに右社会科担当調査官全員および調査員三名の調査にまわされた。同年度の社会科関係の検定申請原稿数はいずれも高等学校用教科書の倫理・社会二三点、世界史A一四点、世界史B二二点および日本史一八点七七点であつて、渡辺調査官の場合、本件原稿を含めて五ないし六点の日本史原稿を割当てられた。同調査官は、本件原稿につき昭和三七年未頃ほぼ調査を終了し、昭和三八年一月一八日社会科担当調査官全員による調査官会議にかけて討議し、その結果を主査である渡辺調査官がまとめ、同月二一日付の評定書および調査意見書を作成したが、右評定書には「総評」として「この原稿は正確性、内容の選択、表記・表現において欠陥が認められるが、全体として叙述に力量があり、新しい学界の動向をもとり入れ、簡潔に記述されている。但し近代史の取扱には一方的な暗い部面をとりあげている分野も多少はあるが、全般的にみると、合格としてよいと認める。」と記載されており、その評価総点数は八一六点(創意工夫一〇点を含む。)で、合格であつた。

他方、調査員三名(甲、乙、丙と仮称)の各評定書および調査意見書も右と同時頃審議会へ届けられ、同年二月項から審議会日本史小委員会(審議会喜田、今野、森谷各委員、調査官渡辺、村尾、貫)において本件原稿につき審議し、同月二〇日の同委員会の議事録によれば、「渡辺調査官より、この原稿を特に合格した理由として4訂版との比較において認定したことの説明あり。但し、近代史においては正確性、内容の選択、表記・表現に欠陥があるばかりでなく、特に一方的な叙述が多く、絶対条件にてらしても欠陥があるとの意見も出され、慎重に審議した結果、満場一致をもつて不合格と判定」と記載されている。右の絶対条件とはその第二項(教科の目標との一致)「学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。」に違背するというものである。このように、右小委員会で満場一致をもつて本件原稿が不合格と判定され、同月二六日開催された審議会第二部会において、喜田委員より前記小委員会の決議が報告されたのち、審議の結果、他の日本史六点はいずれも合格と判定されたが、本件原稿のみは判定保留となつた。ついで、同年三月一三日同部会において委員一二名出席の上で、本件原稿につき午後一時三〇分から午後四時まで慎重審議のすえ、従前の調査者の調査意見書のほか新たに三二箇所の欠陥(それがA意見であるか、B意見であるのか明確ではない。)が追加指摘され、欠陥箇所は総計三二三箇所となり、必要条件の正確性、内容選択の点において調査官の評定記号よりそれぞれ一段階下位のそれに該当するものと評定され、評点の総点が七七四点となり、これに創意工夫の一〇点を加算しても七八四点にとどまり、合格点である八〇〇点を下まわつたため本件原稿は不合格と判定された。

審議会においては、前記のとおり分科会の議決をもつて審議会の議決とされ(教科書用図書検定調査審議会規則第一四条)、また、部会の決議をもつて分科会の決議とされる(「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」第二条)から、結局、右第二部会の決議がそままま審議会の決議とされたのである。

そこで、審議会会長天野貞祐は昭和三八年三月二六日文部大臣に対し本件原稿につき正確性、内容の選択に著しい欠陥があることを理由に検定不合格と判定した旨の答申をし、文部大臣は右答申に基づき本件原稿の検定不合格処分を決定した。

(二) 理由告知

文部大臣は、同年四月一二日教科書調査官渡辺実、同村尾次郎および同貫達人を通じて、文部省に出頭した原告および三省堂社員らに対し本件原稿の検定不合格通知書を交付するとともに、渡辺調査官より右不合格処分の理由となつた箇所のうち三八箇所を事例的に摘示しながら約一時間にわたり口頭をもつて不合格理由の説明を行なつた。右事例の選択は調査官に一任されていたので、渡辺調査官は調査官会議に諮つてこれを決定した(具体的には、乙第四七号証の二・修正意見書、第四八号証の二・第四九号証の三、五の各調査意見書の各左側欄外に○印の付されたもの)ものであるが、それは正確性、内容の選択に関するものを中心にし、組織・配列・分量に関するものを若干加えたものであつた。例えば、内容の選択では、(1)記紀の取扱い、(2)江戸時代の学問、山崎闇斎とか国学者の評価、(3)明治維新の基本的性格などの取扱い、(4)大日本帝国憲法の取扱い、(5)教育勅語の扱い、内村鑑三事件の取扱い、(6)戦後の教育の扱い―学習指導要領、検定基準の問題など六つの柱を立てて説明された。これに対し、原告から右指摘箇所につき具体的な質問があつた。

(三) 審査期間

原稿審査には検定申請受理後四か月ないし七か月を要するのが通例とされているところ、本件原稿は昭和三七年八月一五日申請受理から昭和三八年四月一二日不合格処分の通知までに約八か月を経過していることが明らかである。しかし、それは主として同年度の社会科の検定申請件数が多く、日本史の場合一八点もあり、各調査官の担当件数が多かつたことによるものであり、また、本件原稿について審議会において不合格の判定を決議して(昭和三八年三月一三日)から最終的な不合格処分の決定通知をするまで若干期間の経過がみられるが、これはこの時期になると教科書展示会に間に合わせるため合格図書を不合格図書より優先して事務処理せざるをえなかつた事情によるものである。

2  昭和三八年度検定

原告は前記不合格となつた原稿に修正を加えた上、三省堂から昭和三八年九月三〇日「新日本史」五訂版の検定申請をし、昭和三九年三月一九日文部省において同省初等中等教育局長福田繁作成名義の条件付合格の通知書が原告および三省堂社員らに対して交付されたことは前記(第一の二の2(二))のとおりである。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれを動かすに足りる証拠はない。

(一) 審査

昭和三八年度の本件原稿に対する主査は渡辺調査官、副査は貫調査官と決定し、同年度の検定申請原稿数は、高等学校用のもの政治・経済二一点、世界史A一点、世界史B二点、日本史一三点、小学校用のもの社会三〇点(うち改訂九点)計六七点であつた。

本件原稿には「八―一九六」の申請受理番号が付され、調査官および調査員の調査にまわされたが、渡辺調査官は昭和三九年一月中にほぼその調査を終了し、同年二月一二日調査官会議が開催され、社会科担当の全調査官により本件原稿を検討した結果を主査である渡辺調査官がまとめ、同月一五日付の評定書および調査意見書を作成した。そして、右評定書には「総評」として「この原稿は一つの事象について一方の面だけ強調し、他の面を軽く取扱うというような記述が所々に見受けられるので、これが正確上の一つの欠陥と認められ最も大きな欠陥になつている。とくに近現代史にそれが集中されている。だが現在の教科書には余り取扱つていない生活更の面を平易にとりあげて記述されており、広い階層をとらえた叙述など各所に特色が認められる。しかも全般的に簡潔に平易に記述されている点も優れている。以上を総合してこの原稿は合格と認められる。」と記載されており、その評定総点数は八四六点(創意工夫一〇点を含む。)であつた。

ついで、昭和三九年三月一六日の日本史小委員会において、この原稿には問題が多いので内閲本についで再審査することを条件として合格とする旨の判定がなされ、翌一七日の第二部会においても二九〇箇所の欠陥(うち審議会において新たに指摘したもの一三箇所)が指摘され(昭和三八年度原稿の整理番号1ないし14を含む。)、そのうちA意見を付されたもの七三箇所、B意見を付されたもの二一七箇所であり、結局、評点の総点数八四六点(創意工夫一〇点を含む。)となり、合格点である八〇〇点をこえたので右小委員会同様内閲本について審議会が再審査することを条件に合格とされた。

そして、同日、本件原稿につき審議会会長天野貞祐より文部大臣に対し同旨の答申をなし、文部大臣はこれに基づき右答申どおり条件付合格の決定をなし、同月一九日文部省において渡辺調査官を通じて原告および三省堂社員らに対しその旨の通知書を交付した。

(二) 修正指示

(1) 昭和三九年三月一九日前記条件付合格通知書の交付に引きつづき、渡辺調査官より原告および三省堂社員高木四郎、同小松謙二郎、同今井克樹、同西岡央江に対し口頭をもつて右合格条件が告知されたが、それはたまたま他に適当な場所がないため初等中等教育局妹尾審議官の部屋で同審議官在室執務中に行なわれ、文部省側は古市課長補佐が立会つた。渡辺調査官は、審議会の審議を経た修正箇所およびその理由を本件申請原稿に転記し、それに依拠しながら条件指示の告知をしたが、それは要点のみ簡潔に記述されたものであつたから、右口頭告知に際し相手方の理解を助けるため適宜これをふなえんしがら説明した。そして、同調査官は、最後に、前記文部大臣の決定に従い、この原稿には問題が多いので審議会が内閲本の段階で再審査することが決定されているから了承されたい旨を明確に伝えた。なお、その後、それまで自席にいた妹尾審議官は、渡辺調査官らの席に加わり、三省堂社員からこの本はA意見だけ修正すれば合格になるのかとの質問をされたのに対し、A意見はもちろんのことB意見もやはり欠陥であることに変りはないのであるから修正するよう検討していただきたいと述べた。

(2) 同年四月七日三省堂から内閲本(乙第一三号証)が提出され、A意見の付された箇所について紫色付せんによる異議申立もなくそのまま修正され、B意見についてはその一部につき指示されたとおり修正し、一部につき黄色付せんによる修正に応じ難い旨の意見が付せられていた。

(3) 同年四月一八日前記条件付合格の決定に基づき、審議会第二部会(出席委員九名)において右内閲本の審査を行なつた結果、さらに一七箇所(昭和三八年度原稿の整理番号重4ないし20)についてB意見の修正意見を付することを決議し、即日審議会会長より文部大臣に対しその旨の答申をした。

そこで、同大臣は、四月二〇日右内閲本に対し前記答申どおりB意見の修正指示を決定し、文部省妹尾審議官の部屋において渡辺調査官より三省堂社員高木、同小松に対し右一七箇所の修正意見およびその理由を告知した。その際、文部省側からは渡辺調査官のほか古市課長補佐が同席し、妹尾審議官は前回同様自席で執務していた。そして、右調査官の告知が一通り終つたのち、三省堂社員から同審議官に対し、内閲本の段階で修正意見を指示するのはおかしいのではないかと質問されたが、同審議官は、検定は原稿、内閲本および見本本と三段階に分けて審査されることになつているから、内閲本の段階でなお不適当な箇所があればさらに修正意見が付されてもおかしくはないし、とくに本件原稿については審議会の再答申がなされて意見が付され、それを本日通知したわけであるから、どうかこの趣旨をくんで検討して貰いたい旨の返答をした。さらに、三省堂側よりB条件を再々修正要求するのはどういうわけかと質問したのに対し、右審議官より、B意見は最終的にはその修正を著作者の自由にまかされているけれども、だからといつて最初からよく検討されないということでは、このような意見を付する意味もなくなるし、A意見・B意見の取扱いを今後考えなければならないと答えるなどのやりとりがあつたが、時間的には五、六分程度であつた(前示妹尾審議官室における修正意見告知の際の同審議官の位置につき原告本人は一部これに反する供述をしているが、右部分は採用しない。)。

(三) 審査期間

昭和三八年度の本件原稿の検定経過は次のとおりである。

(1) 昭和三八年九月三〇日 教科書検定申請受理

(2) 昭和三九年二月一二日 調査官(社会科)会議

(3)   同年三月一七日 審議会条件付合格を答申

(4)      同月一九日 文部省より条件付合格通知書の交付および条件告知

(5)   同年四月七日 内閲本提出

(6)      同月一六日 教科書記号・番号・交付票のための届出、教科書目録登載

(7)      同月一八日 審議会内閲本につき修正意見答申

(8)      同月二〇日 文部省より右修正意見告知

(9)   同年五月二七日 見本本提出

(10)   同年六月五日 見本本審査終了し、文部大臣は同年七月三〇日本原稿につき文部省検定済の旨の官報による告示をした(この点は当事者間に争いがない。)。

ところで、教科書検定手続には、普通の場合、原稿審査に四ないし七か月、原稿審査後内閲本申請に要する準備期間が約一か月、内閲本審査に約半月、その後見本本申請に要する準備期間が約一か月、見本本審査に約二ないし三週間を要するのが通例とされているから、その間通算約一〇か月を要するところ、昭和三八年度の本件原稿は昭和三八年九月三〇日検定申請を受理され昭和三九年六月五日見本本審査終了まで通算約八か月余であるから、とくに遅延したことにはならない。

また、検定に合格した図書が現実に教科書として採択されるには、教科書目録に登載され、かつ、各地の教科書展示会に出品されることを前提とするが、教科書展示会は毎年七月一日から一〇日間開催されるのが通例であり、他方、原稿審査に合格すると、前記のとおり教科書目録に登載することが認められる(本件原稿は昭和三九年四月一六日)のみならず、教科書発行業者は文部省に見本本を提出するとほとんど同時にその見本本と同一のものを各地の教科書展示会場あてに発送し、これを検討する機会を提供するようにしているのが実状であるから(本件教科書も普通に教科書展示会に間に合つている。)、本件原稿に対する教科書検定手続が別段遅延したものとも認められないし、また、そのために原告ないしは申請人三省堂の権利を侵害したとは認められない。

(四) その他

原告は、昭和三九年四月一二日渡辺調査官が三省堂社員今井を通じて二〇項目(昭和三八年度原稿の整理番号重1ないし3を含む。)の修正指示をしたと主張するが、そのような事実はなく、それは前回告知した修正意見につき、同月七日提出された内閲本の記述からみてA意見とB意見をはき違えているのではないかと思料される点を念のため連絡したに過ぎないことが認められ〔る。〕〈証拠判断省略〉

なお、原告は、同月二〇日文部省妹尾審議官室における修正意見の告知に際し、同審議官が三省堂社員らに対し「この本については省内、文部大臣はじめ非常に関心をもつており、実は一冊は文部大臣の机の上にあがつていて、もし今日追加指示をしたものについて応諾されないならば、不合格にするということもありうる」旨の発言をしたと主張し、これにそう証人小松謙二郎の証言部分もあるが、証人妹尾茂喜、同渡辺実の各証言ならびに文部大臣は既に本件原稿の条件付合格を決定告知済であり、しかも右修正意見はB意見のみであつて、そのためにいまさら不合格とされる筋合のものではないなど弁論の全趣旨を総合すると、妹尾審議官はその際、本件原稿は欠陥箇所も多く審議会の再審査にかけられたほどであるから、とくに文部大臣にも報告されている点に触れて述べたものであり、原告主張のように修正に応じなければ不合格とする旨の発言をした事実はないことが認められ、右小松証言は信用できない。

3  むすび

叙上の事実に照らすと、昭和三七、三八両年度の本件各検定には、原告主張のごとき不公正、あるいは法治主義の要請に反する不当な手続が行なわれた事実はないものというべく、この点に関する原告主張は理由がない。

二  本件教科書検定における合否の判定

1教科書調査官、調査員の任務および審議会における申請原稿に対する調査評定ならびに合否の判定については、前記(第二の五の2H(一))のとおり審議会の内規がある。

そして、右内規によると、必要条件(同内規第3の2)については第一ないし第九項目までの総点を一、〇〇〇点とし、これを同内規別表3のとおり配点して、これより同内規別表4の各記号に応じて減点し、第一ないし第九項目の評点が八〇〇点以上のものを合格とするが、これに満たないものも第一〇項目(創意工夫)の評点を加算して八〇〇点以上となるときはこれを合格とすること、また、申請原稿に対する総合判定は、絶対条件の三項目および必要条件のいずれも合と判定されたものを合格とすることが定められている。さらに、同内規によれば、原稿に訂正、削除または追加など適当な措置をしなければ教科用図書として不適当と認める事項があるときはこれをA意見として指摘し、これに必要な措置を加えることを条件として合格と認めることができること(一般にこれを「条件付合格」と呼んでいる。)、および条件付合格の場合、A意見のほかにB意見が付されることがあるが、これは訂正、削除または追加などした方が教科用図書としてよりよくなると認める事項について申請者の参考までに伝えるため指摘されるものであることが規定されている。

2しかし、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

(一) 文部省ならびに審議会における教科書検定の実務上は、いわゆるB意見のなかには評定記号(◎○等)の決定に当り、減点の対象とされるいわゆる「欠陥B」と減点の対象とはされないが修正した方がよりよくなるいわゆる「ベターB」との区別があり、右の欠陥Bは、例えば総量約三〇〇頁の原稿につき三〇ないし四〇箇所にも及ぶB意見(欠陥B)が付されたような場合は評点すなわち評定記号の決定にあたり減点の対象として考慮されるのである。ただし、結果として条件付にせよ合格すると、その後はB意見はベターBはもとより欠陥Bであつても修正指示に従つて修正する方がより望ましいが、修正するかどうか最終的には著作者または申請人の意思にまかされ、これを修正しなくても検定不合格となることはないという性質のものである。

(二) 具体的な評定の基礎となる評定の算定方法は、前記内規の別表3に定める第一ないし第九の各項目に配点された点数より各評定記号に応じて減点していくいわゆる減点方式がとられており、評定記号は各欠陥箇所に付した減点を第一ないし第九の各項目ごとにとりまとめ、その数値を申請原稿の総頁数で割つて得た比率を基準として決定される。もつとも、この計算は指摘された欠陥箇所のうちA意見のみを対象とするのが原則であり、ただB意見(欠陥B)も前記のように一原稿中に多数認められるようなとき、とくに、評定記号をいずれにするかボーダーラインにあるような場合に減点の対象とされることがありうるのである。

ところが、各評定記号を決定するにつき評点を計算する際、A意見一個につき何点減点するのか、B意見(欠陥B)がいくつあれば何点減点されるのかこれを直接規定したものは見当らない。しかし、渡辺証言によると、前記のとおり総量三〇〇頁程度の教科書であれば三〇ないし四〇個の欠陥B意見があることにより減点対象とされるが、その場合B意見一個につきどれほど減点されるのかこれを明確にしえないこと、A意見の場合は一般的に一個につき最高一〇ないし一五点、社会科の場合では最高一二または一三点、最低一点、大体は二または三点の減点が普通で、これを具体的に例示すると、ルビが横にぬけておつたとか送り仮名のところがずれているなどの場合はわずかな傷であるから一点程度、昭和三七年度原稿の修正意見書の後半部分の例えば整備番号181の明治維新の改革面のとりあげ方が不十分だとするところは一〇点前後、整理番号281の基地の用語の誤りは二ないし三点、整理番号288の教科書の最後の文章として日本が混乱している形で終つているのは不当であるとしたところは二または三点それぞれ減点されたことが窺われ、他に同認定に反する証拠はない。

3前示乙第四七、第四八号証の各一、二、第四九号証の一ないし七、第五三号証の一ないし三、第五四号証の一、二、第五五号証の一ないし七、第五六号証の一、二により、調査官、調査員ならびに審議会の昭和三七、三八各年度の本件原稿に対するそれぞれの評定、A意見およびB意見の数は左表のとおり(ただし、三八年度はB意見を省略、両年度とも調査員についてはA・B意見を省略)であり、また、昭和三七年度における不合格理由箇所のA意見またはB意見の区別は別紙「昭和三七年度検定におけるA・B意見の区分表」(以下たんに「区分表」という。)のとおりであることが認められ、他にこれを動かすに足りる証拠はない。

ただし、各年度の検定における審議会のA意見およびB意見の数は、調査官および調査員三名の各調査意見書計四通のA意見ないしはB意見のうち審議会において採用したもの(具体的には各調査意見書の審議会判定欄に、昭和三七年度の場合○印を、昭和三八年度の場合はA・Bの記号がそれぞれ記載してある。)の数に審議会の修正意見によるA意見またはB意見の数を加算したものである。

もつとも、昭和三七年度の検定不合格処分に関する審議会の修正意見書にはA意見、B意見の記載がなされていないので、次のように取り扱つた。

(一) 証人渡辺実の証言によつたもの(整理番号145153181190203228243245246253262266281288。ただし、同227については同証人の証言は不明確であるためこれを採用せず、次の(二)に述べるように前示乙第五六号証の二によつた。)

(二) 昭和三八年度の調査官の調査意見書(乙第五四号証の二)または同年度の審議会の修正意見書(乙第五三号証の三、第五六号証の二)のA・B意見の区別より推認できると思われるものはこれによつた(整理番号12202426306172112137138144227297)。

(三) 原告が文部大臣の指摘に応じて昭和三八年度原稿において修正したものでことがらの性質や弁論の全趣旨によりA意見と認めたもの(整理番号99101117)

(四)(1) 整理番号10は、昭和三七年度の調査員甲の調査意見書(乙第四九号証の三)によればA意見、同乙のそれ(乙第四九号証の五)によればB意見であるが、昭和三八年度の調査官の調査意見書がB意見であるのでこれをB意見と認めた。

(2) 整理番号11は、昭和三七、三八両年度とも修正意見書に指摘はされているが、いずれにもA意見またはB意見の記載がないけれども、被告は昭和三八年度の本件原稿につきB意見を付したと主張しており(別紙(二四))、かつ、後記認定のごとく、昭和三八年度検定の整理番号重14にB意見が付されているので、また、整理番号120も同様被告はB意見を付したと主張しており(別紙(二四))、かつ、昭和三八年度検定の調査員丙の調査意見書(乙第五五号証の七)にもB意見が付されているので、これらについてはいずれもB意見と認めた。

(3) 整理番号61は、昭和三七年度の修正意見書(乙第四七号証の二)には内容の選択の誤りとして指摘されているが、被告主張(別紙(二四))によるとこれは正確性の欠陥の誤記であるとされ、別紙(一八)にも基準該当箇所欄に正確性となつており、かつ、昭和三八年度の修正意見

昭和三七年度原稿

3

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

使

便

120

180

140

140

140

160

60

30

30

50

1050

記号

評点

120

90

84

126

112

128

54

30

30

10

784

A意見

126

23

3

13

15

5

4

189

B意見

35

20

8

15

48

8

134

調

記号

評点

120

108

98

126

112

128

54

30

30

10

816

A意見

86

14

1

6

10

3

120

B意見

28

22

14

21

61

11

157

調

記号

良上

評点

120

108

126

112

98

112

54

27

27

20

804

調

記号

評点

120

108

84

126

112

128

54

27

30

0

789

調

記号

優上

評点

108

162

126

126

126

112

54

27

27

40

908

昭和三八年度原稿

3

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

使

便

120

180

140

140

140

160

60

30

30

50

1050

記号

評点

120

126

112

126

126

112

54

30

30

10

846

A意見

48

10

2

2

11

73

調

記号

評点

120

126

112

126

126

112

54

30

30

10

846

A意見

43

10

2

2

10

67

調

記号

評点

120

144

126

112

140

112

54

30

27

30

895

調

記号

評点

120

126

112

126

112

112

54

30

30

30

852

調

記号

評点

108

126

112

98

140

160

48

30

27

30

879

書(乙第五三号証の三)にも正確性を欠くとしてB意見を付されているのでこれによつた。

(4) 整理番号136は、調査員乙の調査意見書(乙第四九号証の五)にA意見とあるのでこれによつた。

(5) 整理番号163は、被告主張(別紙(一八))によれば造本の欠陥とされているが、昭和三七年度の調査官の調査意見書(乙第四八号証の二)では正確性の誤りとしてA意見を付されているので、これによつた。

(6) 調査員の調査意見書と調査官のそれが相違する場合には後者を採用した。

(なお、右(三)および(四)の(2)に説示した点は、いずれも別紙区分表の証拠欄では「弁論の全趣旨」として表示した。)

4ところで、原告は本件各検定の合否判定基準がきわめて不明確であると主張し、その主要な点として次のものをあげている。

(一) 同一記述に対し、ある年には問題にされながら他の年には問題とされていない箇所、あるいは問題とされる理由にくい違いがあるなど客観性に欠けている。

(二) A意見、B意見の区別があいまいである。

(三) 評定記号が具体的な欠陥の指摘と無関係になされるなど評定尺度があいまいである。

(四) 被告主張のいわゆる減点方式による評点計算の根拠が不明確である。すなわち、

(1) 減点箇所(A意見)一個につき何点減点するのか分らない。

(2) 本件ではB意見の箇所も減点の対象にしたのではないか。

というのである。

そこで、本件原稿につき前記諸点を検討するに、右(一)については、〈証拠〉を総合して原告指摘箇所を対比すると、それはおおむね本件原稿の記述そのものがある程度変えられたことによるか、あるいは、時間的経過に伴う学問的水準、教育内容ならびに社会事情等の変化に応じて検定当局による指摘理由ないしは取扱いに相違が生じたものと認められるので、これがため検定基準に客観性を欠く証左とはなし難い。また、(三)の評定尺度があいまいだとする原告の指摘は、ほとんど調査員の評定に関するものであるが、証人渡辺実の証言によると、文部省において「調査員の手びき」(乙第一七号証)を配付するなど調査方法に関する指導につとめているにもかかわらず、調査員のなかには十分これが徹底していない面もあることが認められる。しかしながら、調査員の調査意見書および評定書はあくまで審議会の参考資料にとどまり、終局的には審議会によりふるいにかけられ、審議会において妥当とするもののみが採用されるのであるから、原告指摘の点は申請原稿の検定結果とは直接の関連はないのである。

次に、(四)については、たしかに検定当局の指摘する欠陥箇所一個につき何点減点されるのか明文の基準が設けられていないけれども、審議会における評点の算出方法が前記のとおりであるとすれば、技術的により工夫改善すべき余地はあるにしても、現行のままでもかなり高度の客観性をもつものと認めることができる。したがつて、これを検定基準ないしはその方法として不当に明確性を欠き、教科書検定が全体として検定当局の恣意にながれる危険があるものとは認められない。なお、(二)のA・B意見の区別、これが評点との関連については前記のとおりである。

よつて、原告の右主張はすべて理由がないこと明らかである。

三そこで、昭和三七年度の本件原稿における不適切箇所ならびに昭和三八年度の本件原稿に対する修正指示箇所につき具体的な当否を検討する。

1  昭和三七年度検定

同年度の検定における本件原稿は不合格となり、そこで不適切であるとして指摘されたものが三二三箇所であつて、その具体的内容が被告主張(別紙(一八))のとおりであることについては当事者間に争いがない。

そして、右のうち次の合計九八項目は原告が自から本件原稿の誤りを認めるものである。

(古代) 整理番号36ないし81822263538ないし4044ないし46525459

(中世) 整理番号6466677077ないし7982ないし868992100102107

(近世) 整理番号110129142ないし144146149153154159161163167ないし169171172

(近現代) 整理番号174175178182201202204206222223231241245246261267269277279292294ないし296298299301ないし322

そこで、右以外の項目につき前記(当裁判所の判断、その一、総論)の観点から本件記録中の当事者の各主張とこれに照応する各証拠(〈証拠標目略〉)ならびに弁論の全趣旨により、

(一) 整理番号6293188215264281(以上A意見を付されたもの)

(二) 同   124207216236286(以上B意見を付されたもの)

については原告の主張が理由あるものと認められるが、その余についてはすべて原告の主張は理由なく、かえつて被告の主張が相当と認められ、これらの認定を覆すに足りる証拠はない。

そして、右のうち当事者の主張等からみてとくに問題があると思料されるものにつき、以下に当裁判所の判断内容の詳細を摘示する。

(整理番号11)―目次

(一) 本件原稿の目次「第一二章未曾有の戦争と戦時下の文化一……文化界の右傾」との見出しに対し、文部大臣は、「右傾」という用語は教科書に用いるものとしてはやや通俗的にすぎる表現であつて適切でなく、また、この節の小見出しには「思想界・文化界の動向」とあり、その間に統一を欠いており、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇示にはB意見を付されたものと推認することができる。そして、証人渡辺実の証言にもあるように「右傾」という用語は通俗的であつて、教科書に用いるには適切ではないというべきであり、右検定意見は相当である。

(整理番号12)―原稿一、九、五九、一六五頁

(一) 本件原稿の第一編「原始社会とその文化」の扉のさし絵には「歴史をささえる人々1」という見出しのもとに、「繩文(じようもん)式土器につけられた人面。呪術(じゆじゆつ)のためのものであろうが、原始社会人の自画像と見ることもできるのではあるまいか。《山梨県塩山市出土》」という説明文が付され、第二編「古代国家と古代文化の形成」の扉のさし絵には「歴史をささえる人々2」という見出しのもとに「古代社会の表面を飾るのは貴族文化であるが、その背景にはこの図に見られるような、庶民の労働があつたことを忘れてはならない。《扇面写経の下絵の一つ》」という説明文が付されている。また、第三編「封建社会と封建文化の発展」の扉のさし絵には「歴史をささえる人々3」という見出しのもとに「封建社会をささえるのは農民の生産労働であつた。農民の汗の結晶が、この図のように、年貢(ねんぐ)として武士の手に収められていく。《円山応挙の「難福図巻」の一部》」という説明文が付され、第四編「近代社会の発展」の扉のさし絵には「歴史をささえる人々4」という見出しのもとに「資本主義経済において基本的な役割を演ずる製綱工場で働く労働者の姿。」という説明文が付されている。

これに対し、文部大臣は、第一編ないし第四編の各扉の部分のさし絵にある「歴史をささえる人々」という見出しはどのようなことを意味するのかあいまいであり、生徒にとつては理解が困難であること、そして、これらの「歴史をささえる人々」という見出しとそれぞれの説明文をあわせてみると、例えば、第三編の扉の農民が封建社会をささえるという趣旨の説明文については、封建社会における武士の立場、役割をどう捉えているのかあいまいであり、また、第四編の扉の労働者が資本主義経済において基本的な役割を演ずるという趣旨の説明文については、資本主義経済においては労働者のみが基本的な役割を演ずるものであるかのように理解されるなど生徒を誤り導くおそれがあることをあげ、それ故、右原稿の記述は全体として学習指導要領の「日本史における各時代の政治・経済・文化などの動向を総合的にとらえさせて、時代の性格を明らかにし、その歴史的意義を考察させる。」という日本史の目標を達する上で適切でなく、検定基準に照らすと内容の選択が適切でないとした。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) 原告は、被告主張に対する反論として次のように主張している。すなわち、右のようなさし絵と説明文を各編の扉に載せたのは、各時代における民衆の果した役割ないし生産労働のあり方を重視する必要があるという見解に基づくもので、生徒がこれを念頭におきながら歴史学習ができるように教育上の創意工夫をこらしたものである。本件原稿と右の点がまつたく同じである既刊の原告著「新日本史」は既に一〇年余にわたつて使用されているが、現場教師から「歴史をささえる人々」の意味があいまいであるなどの指摘を受けた事実はないというのである。

(三) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたものと推認される。

〈証拠〉によれば、別件第一審において同証人は、民衆の生産労働というものは非常に逆転が起らないものであり、そして、順序を追つて着実に変化発展するという要素があり、この民衆の生活および労働のあり方の変化によつて政治、経済、文化の諸分野の変化、発展の必然性というものを最も合理的に説明できること、そういう民衆の生産のあり方が歴史全体の変化の基礎をなしているが故に、民衆の生活のあり方をみれば歴史全体の変化というものを捉えることができること、「歴史の主体」ということは一般に使われているが、「歴史をささえる人々」というのは、歴史をささえる主体、あるいは歴史を動かす主体ということと大体同じ意味に使われており、前記さし絵と説明文は教育的にすぐれた工夫であることを述べ、証人小西四郎も、民衆あるいは一般国民の営々として生活していくこと、そのことがまず歴史をささえる原動力となつている旨の証言をしている。

また、証人小松謙二郎の証言には、原告の「新日本史」はその改訂版以来一〇年余り本件原稿と同一のさし絵と説明文を掲載しているが、現場教師の声として、読者に自分が歴史に参画しているという認識をもたせ、教育上非常に有意義であるというような賛同の言葉しか聞いていない旨の供述部分がある。

しかしながら、〈証拠〉を総合して考えると、前記さし絵の説明文「歴史をささえる人々」について次のとおり解するのが相当である。そもそも、「ささえる」という言葉は、本来ある構造物を下方からささえるという意味に使用するのが一般的であり、「歴史をささえる」という言葉は、何を意味するのかそれ自体必ずしも明確であるとはいい難い。そして、これらの「歴史をささえる人々」という見出しとそれぞれの説明文をあわせてみると、まさに被告指摘のような疑問を生ずるのであり、高等学校の生徒にとつては理解が困難であると認められる。これを、かりに証人遠山茂樹の前示証言のごとく、歴史を動かす主体と同義語であると解しても、その意味のあいまいな点は払拭できないのである。むしろ、高等学校の教科書では生徒の発達段階に照らし、歴史という言葉も歴史哲学上の厳密な概念によらず、例えば「歴史の推進力」とか「祖先のはたらき」など常識的な使用方法がより分り易いのではないかと思われる。のみならず、歴史は動的発展的なもので多様な要素のからみあいにより、あるいは多種多数の人間の関与によつてこそ生成発展していくものである。したがつて、それは原告が掲げたさし絵と説明文のごとく(第一編土偶、第二、第三編農民、第四編鉄綱労働者)、いずれも生産労働者であるというような特定の階層に属する人々に限定せられるはずはなく、その点においても、原告の本件原稿における取り上げ方は一面的に過ぎるとのそしりをまぬがれえない。

加うるに、教科書の各編の扉にかようなさし絵と説明文を掲げることは、まさに原告の創意工夫によるものではあろうが、それは最初に一つの先入観を固定させるおそれがあり、教育方法論的にも疑問があると思われる。

(四) 以上の観点からすれば、本件原稿の前記「歴史をささえる人々」という見出しにつき、文部大臣が付した前記検定意見は相当である。

(整理番号16)―原稿三頁六行

(一) 「無政府社会から国家社会へ」という本件原稿の記述に対し、文部大臣は「無政府社会」は国家成立以前の原始社会をさす用語としては一般的ではなく、また、無政府主義においていわれる「無政府」と同じように受取られるおそれもあり、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、右指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

この点に関する証人村尾次郎の証言では、教科書にはなるべく熟した学術用語を使うことが学習に便利であり、政治的社会(国家)の形成される以前の茫漠とした時代を「プリミテイブ ソサイアテイ」(Primitive society)「原始社会」と政治学でも社会学でも呼称するのが一般であり、また、国家組織などを有する文明社会に対する言葉として、それ以前の国家も政府もない社会を「未開社会」とも称するが、いずれにしても国家成立以前の社会を指して「無政府社会」と呼ぶ熟語はいまだ確認されていないと述べている。

他方、原告の主張する「ステイトレス ソサイアテイ」(stateless society)は「無国家社会」と一般に訳されており(岩波英和大辞典にこの訳がついていることは原告の認めるところである。)、「無政府社会」とは語意を異にすること明らかである。もつとも、この「無政府社会」なる言葉は本件原稿三頁の第一編「原始社会とその文化」の序文に該当する「世界史と日本史1」の項で「採集経済から農耕経済へ、石器文化から金属器文化へ、無政府社会から国家社会へといつた基本的な発展の大筋を見れば、日本もまた例外ではない。」と記述された部分に関するものであり、いかに高等学校の生徒であつても、それが原始社会に関する記述であつて、被告主張のように近代の無政府主義(アナーキズム)にいう「無政府」ではないことを理解するのは見易いことであり、両者を混同するおそれは少ないといえよう。しかし、それは高等学校の教科書における用語としては未熟であり、表記・表現の適切さを欠くものといわざるをえないので、この点に関する右検定意見は相当である。

(整理番号23)―原稿一三頁

(一) 本件原稿に「漢の委の奴国王の印(実物大)」として掲げられた写真の説明として「一七八四年(天明四年)に筑前(ちくぜん)の志賀島(しかのしま)から、光武帝が奴(な)国王に与えた『漢の委(わ)(倭に同じ)の奴国王』という文字を刻んだ金印が掘り出された。(黒田家所蔵)」と記述された部分に対し、文部大臣は「光武帝が奴(な)国王に与えた……金印」とあるが、その掘り出された金印が光武帝が奴国王に与えたものであるかどうかについては、いまだに明確でなく、この記述は断定にすぎて、不正確であるとし、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、右指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。そして、証人村尾次郎の証言によると、前記金印については史料として後漢書の光武帝紀と東夷伝に文献が出ているのみであるが、わが国の学説はその真偽をめぐり真印説(原告主張はこれに属する。)、偽印説と対立しており、原告主張のように偽印説は今日まつたく顧みられなくなつた事実はないこと、文部大臣の右検定意見はこの両説の対立をふまえた上で、高等学校用教科書に同金印がすなわち光武帝の奴国王に与えた金印そのものであるように記述するのは断定に過ぎ、不正確であるとしたものであることが認められる。

他方、〈証拠〉によれば、自由書房「要説日本の歴史」では金印の写真の説明で「印文は通説では『漢の委(わ)の奴(な)の国王』と読み、奴は博多湾付近にあつた小国とされている。」とし、通説以外の学説の存在を示唆し、山川出版「精選日本史」では「博多地方の小国の一つである奴(な)国の王が、後漢(ごかん)の光武(こうぶ)帝に朝貢し印綬(いんじゆ)を受けるなど」とあり、金印の写真が掲載され、その説明のなかで、「金印 一七八四(天明四)年福岡県志賀島(しかのしま)で一農夫が偶然掘りだしたもの。印は『漢委奴国王』とあり、ふつう『漢の委(わ)の奴(な)の国王』と読まれる。『奴』は博多湾近辺の小国家である。」と説明し、実教出版「日本史」も「『後漢書(ごかんじよ)』には、紀元後五七年に倭の奴国(なこく)の使者が、遠く後漢の都洛陽(らくよう)に行き、光武(こうぶ)帝から印綬(いんじゆ)を与えられ」とあり、金印の写真が掲載され、「『漢委奴国王』の金印 一七八四年に博多(はかた)湾の入口にある志賀(しかの)島で発見された。奴国は今の博多付近と考えられる。」とし、いずれも前記志賀島から掘り出された金印が漢の光武帝より与えられたものと断定することをさし控えた記述であることが認められ、原告の本件原稿の記述とはやや趣を異にするのであつて、原告がこれらの教科書が原告の原稿の記述と同趣旨であるとするのは当らない。

以上の事実に照らすと、右のごとく相対立する学説が存する場合に他の一方の学説をまつたく顧みることなく自己のとる学説のみを教科書に記述することは、教育的配慮にも欠け、断定に過ぎ、不正確であるというべく、これと同趣旨の前記検定意見書は相当である。

(整理番号28)―原稿一七頁二六行ないし一八頁二行

(一) 本件原稿の「豪族などの間では、ひとりの夫が数人の妻を持つ習慣が行なわれていたが、嫡妻(ちやくさい)以外の妻もやはり妻であつて、後世の妾(めかけ)のような卑しい存在ではなかつた。」という記述に対し、文部大臣は妻問い婚が行なわれていた時代の豪族の嫡妻以外の妻の地位を説明するのに、唐突に婚姻についての事情がまつたく異なり、その地位に大きい差異のある後世の妾と対比しており、「・・後世の妾(めかけ)のような卑しい存在ではなかつた。」と記述するのでは、その「嫡妻(ちやくさい)以外の妻」の地位が明らかにされていないし、なお、この箇所は「嫡妻(ちやくさい)以外の妻」の地位を説明するところであつて、妾についての説明がなければならないところではないのにかかわらず、ことさら「後世の妾(めかけ)のような卑しい存在ではなかつた。」とまで記述することは、教科書の記述としてはいささか品位に欠けるうらみもあるとし、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、右指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

原告本人尋問の結果によると、右検定意見は家父長家族制度あるいは家父長家族道徳の曲庇をめざすものとしか思われなとい述べている。しかしながら、証人村尾次郎の証言によると、五ないし六世紀における婚姻関係の記述として、本件原稿の「嫡妻(ちやくさい)以外の妻もやはり妻であつて」といういい方が何をいおうとしているのか、つまり、嫡妻と然らざる妻の地位または待遇が同じであつたというのか、それともいくらかの違いはあつたけれども、それほど大きな開きはないという意味において「後世の妾(めかけ)のような卑しい存在ではなかつた」というのか、その趣旨が不明確であるのみならず、右にいう「後世」とは江戸時代または明治時代かいずれにしても近世をさすと思料されるが、千年以上も隔つた近世の妾を引合いに出して豪族の妻の地位を説明しようとすることは、やや時代錯誤の感をまぬがれない旨の供述をしているが、当裁判所の判断も右と同様である。すなわち、「嫡妻(ちやくさい)以外の妻もやはり妻であつて」という本件原稿の記述は、必ずしも文意明確であるとはいい難く、また、五、六世紀の豪族の妻の地位をその時代的、社会的背景を異にするはるか後世の妾と対比することはやや唐突の感をまぬがれえないのである。

もつとも、成立に争いのない甲第一九四号証によると、「令集解、巻十、戸令」のなかに「此間妾與妻同體」とあることが認められるが、これは妻妾間に身分の相違がないとするものではなく、妻としての実態が同じであることを意味するのみならず、本件記述の対象時よりのちである律令制に関する記事であることが右村尾証言により認められるので、これも前記結論を左右するものではない。

したがつて、前記検定意見は相当である。

(整理番号30)―原稿二二頁二〇行ないし二三頁一行

(一) 「聖徳太子(しようとくたいし)(五七四〜六二二)は、中央集権体制を作り出すために、冠位(かんい)十二階を定めて、人材登用の道を開き、憲法十七条①を作つて、天皇の支配権強化の方針を明らかにした。」との本件原稿の記述に対し、文部大臣は、聖徳太子が冠位十二階や憲法十七条を定めたのは、朝廷の秩序を確立し、施政上の指導理念を明らかにしようとしたこととみるのが適切であつて、この記述のように、当時において既に「中央集権体制を作り出す」ことを目的としていたとするのは不正確であるとし、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否につき考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたものと推認することができる。

そして、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

冠位十二階は、朝廷が個人の才能、功績により徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けた十二階に応ずる冠を与えるもので、その授与の範囲は畿内およびその付近の豪族で朝廷に役職を有する者に限られた。他方、憲法十七条は当時中国大陸より伝わつた儒教、法家の思想および仏教の理想を背景とし、その内容は主として朝廷に仕える者たちに政治道徳としての訓戒を格言的に示したものであつて、権力的な法令ではない。すなわち、第一条は以和為貴、第二条は篤敬三宝、第四条は以礼為本、第五条は明弁訴訟とするなど、憲法十七条全体をみると、第三条が承詔必謹とし、第一二条が勿斂百姓など一応天皇への服従を要求しているかの趣旨にとりうるにもかかわらず、憲法十七条の全体的性格としては、政治を行なう上においての心がまえを示したものである。そして、聖徳太子は当時隋との国交に備え、礼典制度を整備し、もつて内に朝廷の権威を高め、外に国威を昂揚せんことを意図していたが、それは当時の氏姓体制を前提とするものであつて、これを打破し、中央集権体制を作り出すことまでの意図があつたものとは認められない。

(三) 以上の事実が認められ、同事実に照らすと、本件原稿の前記述は妥当ではなく、むしろ、新日本史四訂版のように「中央集権の政策は、太子の時にあつてはただその理想が示されているにとどまり、実行に移されるには至らなかつた。」(この点は当事者間に争いがない。)と記述した方がより適切であつたといえる。したがつて、右検定意見は相当である。

(整理番号31)―原稿二二頁 注①

(一) 「①憲法十七条は、豪族に対し、天皇への服従を要求した訓令であるが、聖徳太子の作ではないとする学説もある。」との本件原稿の記述に対し、文部大臣は、憲法十七条はいわば政治の指導的地位にある者に与えた政治を行なう上の心がまえを示した教えであつて、本件原稿のように「豪族に対し、天皇への服従を要求した訓令」とするのは不正確であり、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否につき考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。そして、右文部大臣の意見の正当であること前記(整理番号30)説示のとおりである。

(整理番号37)―原稿二五頁・系図

(一) 本件原稿には次の系図が登載されている。

(二) これに対し、文部大臣は、大友皇子は皇室典範第二六条および皇統譜令に基づく皇統譜において「弘文天皇」とおくり名されているところであり、このままでは、皇室の系図の記述内容として不正確である(なお、原稿三七頁の皇室系図に「大友皇子」という記述があるが、これについても同じことが指摘できる。)とし、検定基準に照らし正確性に欠けるものとした。

(三) 右(一)(二)の事実は当事者間に争いがなく、文部大臣の前記指摘箇所にはB意見を付されたことは別紙区分表記載のとおりである。そこで、右検定意見の当否について考える。

証人村尾次郎の証言によると、大友皇子が天皇に即位したか否かについては積極、消極の両説が対立し、消極説の根拠は日本書紀に大友皇子を天皇として記述されていないことがその主たる理由とされているが、逆に即位しなかつた旨の記載もないこと、他方、積極説は水戸光圀の著した大日本史にその旨の記載があるのはもとより、そのはるか以前に法然上人の師であつた延暦寺の僧皇円の著書「扶桑略記」をはじめ「大鏡」「年中行事秘抄」「紹運要略」などにもつとに見られるところであつて、それなりに十分根拠を有するものであること、また、明治時代ではあるが弘文天皇とおくり名されて皇統譜に登載されていることなどが認められる。

右事実に照らすと、このように歴史上重要なことがらについて両学説の対立が顕著である場合、高等学校の教科書には著者のとる立場と反対の学説があることも括弧書きその他何らかの形でこれを示す程度の教育的配慮が望まれるのである。したがつて、前記検定意見は相当である。

(整理番号50)―原稿三二頁 注①

(一) 本件原稿には、「古事記」および「日本書紀」についての脚注として次のとおり記述されている。

「『古事記』も『日本書紀』も『神代(かみよ)』の物語から始まつているが、『神代』の物語はもちろんのこと、神武(じんむ)天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために作り出した物語である。『古事記』『日本書紀』は、このような政治上の必要から作られた物語や、民間で語り伝えられた神話・伝説や、歴史の記録などから成り立つているので、そのまま全部を歴史とみることはできない。」

(二) 文部大臣は右記述に対し、全体として「古事記」、「日本書紀」の記述をそのまま歴史とみることのできないということのみを強調していて、これらの書物が現存する数少ないわが国の古代の文献の一つとして有する重要な価値についてまつたく触れていないとし、このような記述は、高等学校学習指導要領の日本史の目標(4)の「わが国の学問、思想、宗教、芸術などの文化遺産についての理解を深め、親しみ尊重する態度を育て、さらに新しい文化を創造し発展させようとする意欲を高める。」という目標を達成する上で適切ではないとし、検定基準の内容の選択に誤りがあるとした。

(三) 右(一)(二)の事実は当事者に争いがなく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことは別紙区分表記載のとおりである。

原告は、被告主張に対する反論として、本件原稿の右記述は歴史学界における最大公約数的立場に合致しており、神武天皇以降数代の天皇に関する記事が架空の物語であることについて今日の学界において異論を唱えるものはきわめて少ない旨を主張する。

そこで、右検定意見の当否につき考える。

成立に争いのない乙第二一号証(津田左右吉全集第二〇巻)によれば、わが国古代史研究の第一人者である津田左右吉は、昭和二八年四月号の中央公論に載せた「中学校に於ける日本歴史の教科」という論文で、「もし神代の説話を歴史的事件の記録でないとすることが、科学的に歴史を理解するためには説話を無用のものとする意義であるとするならば、それは説話に説話としての大きな意味のあることを知らないものである。神代の説話はいふまでもなく説話であつて歴史的事件の記録ではないが、しかしそれは日本の国家の起源と皇室の由来とに関する上代人の心情と思想とを、説話の形で表現したものであつて、その心情その思想はどこまでも上代の精神史上思想史上の事実である。さういふ心情さういふ思想を上代人がもつていたということが厳然たる歴史的事実なのである。かゝる心情と思想とを抱いてるいたものは、当時の政治形態に於いては、皇室の周囲にあつては政治の運用に関与したものであらうが、彼等が恣意な態度で説話を造作したのではなく、彼等に共通な心情があり思想があつて、それを説話化したものが神代の説話である。だから神代の説話を、或る方面の人たちのいうふ如く、事実でないことを『でつち上げて書いた』ものと考ふべきではない。説話は心情思想の表現であるから、一々の事件の歴史的記録よりも却てよく全体としての上代の真相を世に伝へるものである。」と述べ、古事記および日本書紀がわが国の古代歴史に関する価値ある史料であることを明らかにしており、他にこれに反する証拠はない。

ところで、文部大臣は本件原稿の記述は記紀の有する文献的価値にまつたく触れていないと指摘しているが、前示乙第一一号証によると、本件原稿に記紀に関する次のような記述がなされていることを認めうる。「古代初期では、宗教があらゆる生活の分野にしみこみ、政治も経済も芸術も、みな宗教と深く結びついていた。政治上の支配者はもともと宗教上の司祭者だつたのであり、天皇の地位も、政治的君主としての権力と最高の司祭者としての権威に基礎を置くものであつた。『古事記(こじき)』『日本書紀(にほんしよき)』(三一ページ参照)に見える神代(かみよ)の物語②で、天皇の祖先が神であるとされているのは、天皇の司祭者としての性格を投影した結果と考えられる〔史料2参照〕。(中略)また神話・伝説などが口伝えに語り伝えられた『古事記』『日本書紀』などにはこうした口承文芸のいくつかが取り入れられている。」とあり、さらに、史料2には、古事紀に見える伝説として速須佐之男命(はやすさのをのみこと)と天照大神の説話が一部紹介されている。

しかしながら、右記述のみでは、文部大臣の指摘する記紀の古代史における史料的価値を伝えているとは認め難い。のみならず、〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。すなわち、古事記編纂の目的は、その序文に天武天皇の詔として、諸豪族の持ち伝えている「『帝紀』および『本辞』既に正実に違い、多く虚偽を加う、今のときにあたりその失なえるを改めずんば、いまだいくばくの年を経ずして、その旨滅びんと欲す」というのがあり、同天皇が諸豪族の系譜などとして伝えられている「帝紀」や「本辞」を国の歴史書として総合化、定本化することを意図したことが窺われる。また、記紀編纂当時は皇室の権威が大いに加わつた時期であるから、記紀編纂の動機はこれにより対内的に皇室がその統治権を正当化する必要によるというより、むしろ、中国大陸との交流にあたり国威宣揚のため国史編纂が求められたものであるとも見られる。

以上の事実に照らすと、記紀の史料的価値につき言及することのない本件原稿の記述に対して付した前記検定意見は相当であるといわなければならない。

(整理番号55)―原稿三五頁一ないし五行

(一) 本件原稿の「このように、仏教は鎮護国家のための呪術(じゆじゆつ)として信仰されたのであつて、個人の魂を救うための教えとして広まつたのではなかつた。隋・唐の法相宗(ほうそうしゆう)(ほつそうしゆう)・華厳宗(けごんしゆう)などのむつかしい仏教教義が輸入されたが、①それは寺院内の少数の僧侶だけの学問にすぎず、仏教信仰と民族信仰とは少しも衝突しないで並び行なわれた。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、「仏教は鎮護国家のための呪術(じゆじゆつ)として信仰されたのであつて、個人の魂を救うための教えとして広まつたものではなかつた。」という記述は、当時の仏教信仰の態様についての的確な説明ではなく、全体として、奈良時代の仏教についての一つの傾向を強調しようとするあまり、当時の仏教信仰にはその根底に人々の救いが求められていたという面がまつたく配慮されていない。また、仏教信仰と「民族信仰」が衝突しないで両立したことの理由を、仏教教義が寺院内の少数の僧侶の学問であつたことに求めているようであるが、これは仏教教義の学問的研究と仏教信仰全般を同一視して論じているものであつて、適切でない。さらに、当時における仏教信仰と民族信仰とは、むしろ融合しようとする傾向にあつたため両立できたのであつて、このことが記述上配慮されてなく、適切でない。これは検定基準に照らし内容の選択に誤りがある。以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人村尾次郎の証言に照らすと、奈良時代の仏教を観察する場合、それが鎮護国家のための呪術たる面をもつのは、国家と官立の大寺院との関係における仏教の公的な役割においてであつて、個々の僧尼、一般人の仏教信仰には困果応報の仏理により個人の魂を救うという一面もあつたのであり、本件原稿の記述のように、奈良時代の仏教を鎌倉時代の仏教と比較した上で、完全に鎮護国家のための呪術であつて、個人の魂を救うための教えとして広まつたものではなかつたというように捉えるのは妥当ではないこと、また、本件原稿の記述は、仏教信仰と民族信仰とは少しも衝突しないで並び行なわれたことが「それは寺院内の少数の僧侶だけの学問」にすぎなかつたためとして取扱つているが、むしろ、それは仏教を日本的に取り組み、信仰の上での融合現象がみられたことに因るものであつたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

以上の事実によると、本件原稿の前記述は、その内容の選択において文部大臣指摘のごとき欠陥が存するといわざるをえないから、右検定意見は相当である。なお、原告代理人が証人村尾次郎に対する反対尋問の過程において指摘した竹内理三著、自由書房発行「日本史改訂版」(成立に争いのない甲第一七七号証)四六頁には、「国分寺の建立にもみられるように、この時代の仏教は、個人の魂を救うことよりもむしろ、国家の繁栄を祈る鎮護国家の宗教であつた。」と記述されているのに、同書が検定を合格している事実が認められる。しかし、右記述にもあるように、「個人の魂を救うことよりもむしろ」として、個人の魂を救うことをまつたく否定する表現となつていないのみならず、前記指摘箇所に付されたのはB意見であるから、検定に合格した自由書房の「日本史改訂版」は、かりに本件記述同様B意見を付されたとしても、これを修正するかどうかは著作者の意思決定に委ねられているので、そのことだけを捉えて不公平であるとするのは適切ではない。

(整理番号62)―原稿四〇頁一〇行

(一) 本件原稿の「最澄(さいちよう)(伝教(でんきよう)大師)(七六六〜八二二)」との記述に対し、文部大臣は、(七六六〜八二二)は(七六七〜八二二)の誤りであり、これは検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否につき考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

証人村尾次郎の証言によると、最澄の生年については、同人の弟子仁忠の著「叡山大師伝」や光定著「一心戒文」などに、最澄がなくなつた年を弘仁一三年(八二二年)行年五六才と記されていることを根拠に七六七年説が唱えられたが、他方、公文書である近江国府牒(大日本古文書、六の六〇四頁)によれば、宝亀一一年(七八〇年)に最澄が「年拾伍」と記録されており(このことは当事者間に争いがない。)、これから逆算すると、その生年は七六六年(本件原稿の記述)となること、明和八年金龍敬雄が編し、文久二年慈本が増補した「天台霞標」には、最澄の当時僧侶となるための得度は一五才以上の者に許される定めであつたが、最澄は一四才であつたので得度を認める公文書には一年加えて一五才として登録したものでろうという説をたて、最澄の前記直弟子らのいうところと右公文書との一年のずれを調整したこと、わが国における仏教史の権威辻善之助の「日本仏教史」(第一巻上世編二五七頁)も慈本の右説を支持しており、望月信亨の「仏教大辞典」にもこの説が採用され、本件検定当時にはこれが通説とされていたこと、しかるに、昭和四〇年五月発行の雑誌「歴史教育」(第一三巻五号)に嗣永芳照の「伝教大師伝に関する一、二の考察」が発表され、前記公文書の記載年令を虚偽であるとする理由はなく、七六六年生誕が正しいのではないかとする疑問が投ぜられてより七六六年説をとる学説もふえ、今日では有力説となりつつあり、元早稲田大学教授で現日光輪王寺門跡福井康順も同説をとつていることが認められ、他に同認定に反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、今日では、最澄の生誕年は七六六年であるとするのがかなり有力であり、本件原稿の記述はこれに合致するところ、本件検定当時では七六七年説が通説であつたことが認められる。しかしながら、教科書検定の対象たる歴史的事実はあくまでも客観的に当否を判断すべきである。のみならず、証人村尾次郎の証言ならびに弁論の全趣旨によれば、本件検定当時においても、公文書である近江国府牒が現存し、それによると最澄の年令が宝亀一一年(七八〇年)に一五才であることが記録されている事実は検定当局にも知られていたものと認めうる(なお、前出乙第一二号証によると、昭和三八年度検定原稿にも最澄の生年を七六六年としてあるのに、文部省側がこれに対して修正条件を付した証拠はない。)から、たとえ通説的学説に依拠していたとしても、本件検定意見は客観的に誤りであつたと認めざるをえず、不当といわなければならない。

(整理番号71)―原稿五一頁五ないし八行

(一) 本件原稿の「しかし、貴族の家庭では、妻が生産労働に従事する農民と違い、妻に社会的役割がなく、夫の愛情にすがるよりほかに生きる道のない弱い一面があつたので、妻は夫の妻問いの絶えるのをいつも恐れていなければならなかつた。」との記述に対し、文部大臣は、この箇所は「貴族の家庭では‥妻に社会的役割がなく」とか、「妻は夫の妻問いの絶えるのをいつも恐れていなければならなかつた」など、全体として断定に過ぎ、不正確であるし、また、「妻が生産労働に従事する農民と違い」と記述することにより、妻の地位が生産労働に従事するかどうかによつて律せられるかのような誤解を生徒に与えるおそれがあり、適切でないとし、これは検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

ところで、右指摘箇所は、本件原稿の「第5章貴族社会と貴族文化の成熟」の「1貴族政治の全盛と藤原時代の文化」のなかで「家族生活」について述べたものの一節(五一頁)である。これを引用してみると「この時代にも引き続き妻(つまど)問い婚が行なわれ、夫が妻の家に婿(むこ)取られるのが習慣で、妻の独立性はまだかなり強かつた。相続にも分割相続が行なわれ、女子で荘園の領主となる者もあり、婦人の社会的地位は後世よりも一般に高かつた。」とし、そのあと前記指摘の「しかし、貴族の家庭では、妻が生産労働に従事する農民と違い、妻に社会的役割がなく、夫の愛情にすがるよりほかに生きる道のない弱い一面があつたので、妻は夫の妻問いの絶えるのをいつも恐れていなければならなかつた。」とあり、つづいて「男性が公然と何人もの妻を持つ反面に、妻が何人もの夫を持つこともそれほど悪いこととされておらず、その家族道徳は後世のそれと全く違つていたのである。」と記述されている。

この点に関する証人貫達人の証言は、当時の婚姻制度は夫が妻の家に婿取られる妻問い婚であるから、その生活は妻の父の資力、収入等によりささえられる面もあつたのであり、また、女子も相続財産を承継し、あるいは荘園領主となるなど十分経済力を有するものもいたので、貴族の妻に社会的役割がないとする本件原稿の記述は決して妥当なものではないし、貴族の妻は生きるためには夫の愛情にすがるよりほかにない弱い一面があつた云々も、元来夫と妻の微妙な愛情に関する問題であつて、これを家族制度と結びつけようとするのは唐突の感を免れえないし、女が多くの夫をもつ、多夫婚の例を認める以上、夫の愛情にすがるより生きる道がないというのも少し断定に過ぎて不正確であると指摘しているが、当裁判所の判断も同旨である。

加うるに、本件原稿の前記述は前後矛盾混乱の感を受け、生徒の理解に困難であろうと思料される。証人永原慶二は、本件原稿の「社会的役割がなく」というのは文脈上「生産的役割がなく」という趣旨に読むべきであり、平安期の貴族は外祖父母として権勢を得ようとしたのであるから、子を生む女はそういう権勢に自分の実家を近づける一つの道具として機能せしめられ、これを説明するためには夫の妻問いの絶えるのを恐れるということを指摘することはきわめて意味のあることだと証言している。しかしながら、高等学校の生徒が本件原稿の右記述からそのように読み取ることは困難ではないだろうか。

以上の次第で、前記検定意見は相当というべきである。

(整理番号87)―原稿六五頁五ないし七行

(一) 本件原稿の「武家政治を開いた頼朝は貴族の出身であつたが、頼朝を支配者たらしめたのは、荘官(しようかん)・名主級の武士を主力とする勢力であつた。」との記述に対し、文部大臣は、「頼朝は貴族の出身であつた」とあるが、このようにその出身をたんに「貴族」というだけでは、清和源氏という武門の出身であつたことが表わされていないので、適切でなく、武家政治を開いた頼朝の出身について生徒に誤解させるおそれがあるとし、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否につき考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

原告は、本件原稿の「経済の発展」の項における右記述は、頼朝を支配者たらしめたものが、荘官・名主級の武士勢力であり、彼らが貴族の出身である頼朝を支持したことを通じてその実態を正しく説明しようとするものであり、頼朝が武士であることは本件原稿の他の部分(五七、六一頁の各記述、五八頁の清和源氏の系図)において十分表わされている旨反論する。そして、証人貫達人、同永原慶二の各証言を総合すると、たしかに頼朝が清和源氏の流れをくむ貴族の出身であつたことが、東国武士の支持を得た理由の一つであることを肯認できるが、それと同時に頼朝が武士の棟梁たる家系の出であつたことも右支持を得た重要な要因であることも明認でき、他にこれに反する証拠はない。

したがつて、前記述においては、頼朝が貴族の出身であることと併せて武士であることも記述した方が教科書としては適切であると思料されるから、原告指摘の箇所に頼朝が武士である旨の記述ないし系図が示されていたとしても、右瑕疵を補ないうるものではなく、原告の右反論は失当である。そうすると、本件原稿の前記述は表記・表現の適切を欠くものと認められるので、右検定意見は相当である。

(整理番号88)―原稿六九頁五行

(一) 本件原稿の「法相宗の貞慶(じようけい)(一一五五〜一二一三)や華厳宗の高弁(こうべん)(明恵(みようえ))(一一七三〜一二三二)は、簡易な教えを説いて尊敬され」との記述に対し、文部大臣は、「簡易な教えを説いて尊敬され」とあるが、これらの人が尊敬されたのは、きびしい修業をしたことや高潔な宗教的人格によるところが大きかつたものというべきである。しかるに、右記述では、たんに簡易な教えを説いたために尊敬されたもののごとく受取られるおそれがあり、これは、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、鎌倉時代には法然、親鸞および日蓮らによる新仏教が起り、念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できるという簡易な教えが民衆の間に広く信仰され、同時代の仏教全体の特色がすべて著しく実際的であり、易行解脱の要求が時代的思潮であつたこと、そして、これに刺戟されて旧仏教に属する諸宗派にも刷新運動がおこり、法相宗の貞慶は弥靱の念仏により大菩提を完成することができると説き、華厳宗の高弁(明恵)も仏教の真理をきわめて単純明解なものとして説いたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右事実に照らすと、簡易な教えを説いたものは貞慶、高弁の両名に限らず、同時代の仏教各派に共通のものであつたことが明らかである(本件原稿も六七頁に法然の説明として「この簡易な教えに感激していろいろの階級のものがそのもとに集つたが」と記述されている。)。

したがつて、この両名がたんに「簡易な教えを説いて尊敬され」と書いたのみでは、同人らが尊敬された理由を十分表現しえたことにはならない。むしろ、貫証言に引用されている島地大等著「日本仏教教学史」(二一八頁)、辻善之助著「日本仏教史」がそれぞれ指摘しているように、右両僧の場合、その清廉高潔なる人格の故に貴賤を問わず民衆より尊敬されたものと認めるのが相当である(のみならず、右両名にかぎらず、前示のような当時の高僧はいずれも民衆の尊敬を受けたことは公知のことであるから、この両名にのみ「尊敬され」た旨を歴史の教科書に書くこと自体あまり意味のないことであり、「簡易な教えを説き」とだけしておけば十分であると思われる。)。そうすると、本件原稿の前記述は、検定基準に照らし表記・表現の適切さを欠くものというべく、これと同旨の右検定意見は相当である。

(整理番号93)―原稿七七頁一四ないし一五行

(一) 本件原稿の「親房は『神皇正(じんのうしよう)統記(とうき)』を著わし、南朝が正統であることを歴史上から主張した。」との記述に対し、文部大臣は、「南朝が正統であることを歴史上から主張した。」とあるが、神皇正統記は、年少にして皇位を継いだ後村上天皇のため君徳涵養の目的をもつて書かれた日本歴史全体の通論書であるから、この記述のままでは、本書全体の内容が特定の現実的政治問題をとりあげて、南朝が正統であることを世の中に向つて主張したもののごとく受けとられ、表現が適切でないとし、検定基準に照らし表記・表現の適切を欠くものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、前記指摘箇所にはA意見が付されたことは別紙区分表記載のとおりである。

〈証拠〉を総合すると次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

北畠親房が著わした神皇正統記は、年少にして皇位を継いだ後村上天皇のために君徳涵養の目的をもつて書かれたというよりは、むしろ、親房が「家訓の書」としてこれを著述したものとみる学説の方が今日ではより有力である。すなわち、神皇正統記には古写本として数種類あるが、そのうち白山社本、青蓮院本等の奥書に「此記は、去る延元四年秋、或る童蒙に示さんが為に老筆を馳する所なり」(原文は漢文)と書かれており、右に「童蒙」の意味について学説が分れ、終戦前までは平泉澄、平田俊春らの主張するところに従い「童蒙」とは後村上天皇を指したものであるとする学説が通説とされていた。しかし、これには既に戦前から批判的学説もないわけではなく、とくに、永井行蔵は、神皇正統記の草稿ないし初稿本であると推認される阿刀氏本に「今注シ侍シハ専ラ皇統ノタダシク御座ノ故ヲ明メテ、未世ノ疎カナル類ニモ令悟為ナレバ、神皇正統記ト名付ケ侍ル」との一文が存在することを明らかにして、右「疎カナル類」とは「愚かなる類」と同義であつて、いかに御幼帝とはいえ後村上天皇を指す言葉としては穏当を失する用語であり、むしろ、親房が自己の遺志を継受して南朝に忠誠を尽すよう一族の家訓の書として著わしたものであるとの説を発表し、戦後はこの学説に従うものが次第に増して、今日では後村上天皇のための君徳涵養の目的であつたとする学説よりむしろ有力となつた。

したがつて、神皇正統記は内容的にも南朝が正統であることを歴史上から主張したものと認めるのが相当である。

以上の認定事実に照らすと、本件原稿の前記述は正当であつて、これを表記・表現の誤りとした本件検定意見は不当である。

(整理番号97)―原稿九〇頁四ないし六行

(一) 本件原稿の「加賀(かがの)国の一揆では守護の富樫(とがし)氏を追い、一国をその支配下に収めたほどである。」との記述に対し、文部大臣は「富樫(とがし)氏を追い」とあるが、富樫氏を他の場所に追い払つたのではなく、攻め滅ぼしたのであるから、この記述は誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

原告本人尋問の結果によると「富樫(とがし)氏を追い」というのは、その地位から追い落すという意味であり、これを「滅ぼし」とするまでもなく、このままでも理解できると供述しているが、成立に争いのない乙第一六九号証の一によると、右一揆が蜂起して当時守護職にあつた富樫政親を滅ぼし、以後約百年加賀一国は「百姓ノ持タル国」となつたことが認められ、他にこれに反する証拠もない。したがつて、たとえ、その後一族の泰高らが残存したとしても、既に守護たる地位にはならないので、この場合「富樫(とがし)氏を追い」と記述するのは誤りであり、右検定意見は相当である。

(整理番号108)―原稿一〇三頁二二ないし二三行

(一) 本件原稿の「また日明(みん)貿易を再開しようと考えたが、明がこれに応じなかつたので、明を討とうとして道を朝鮮に求め、」との記述に対し、文部大臣は、この箇所の記述では文禄の役の経緯について、わが国と朝鮮との関係については、たんに「明を討とうとして道を朝鮮に求め」とあるのみであつて、わが国と明国との関係の面から述べられるにとどまつており、わが国と朝鮮との関係の面から記述されておらず、このままでは文禄の役当時のわが国と朝鮮との関係などわが国をとりまく国際関係を理解する上に不適切な記述であつて、検定基準に照らし内容の選択の誤りとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

前示乙第一一号証によると、右指摘箇所は本件原稿の一〇三頁「文禄・慶長の役 秀吉は海外諸国との交通・貿易を盛んにしようと図つたが、その対外政策には武力侵略の色彩が強く、ゴアのインド総督や台湾・ルソンなどに向かつて入貢を強要した。」という記述に続くものであるが、〈証拠〉を総合すると、豊臣秀吉は国内統一事業の進展につれ、アジア諸地域統合の策をめぐらし、一五九〇年小田原城(北条氏)攻略により国内統一が一応成功するに至るや、征明の決定を明らかにし、「仮道入明」の名目で朝鮮王に道案内を命じたこと、しかし、当時朝鮮は明を宗主国と仰ぎ自らは属国の礼をとつていたので、日本の右要求などに応じられるはずもなかつたが、国論が二分し日本への確答を延引しているうちに、秀吉は外征の準備が整うと、まず朝鮮を討つことに計画を変更し、一五九二年四月朝鮮との戦争を開始したこと、これが文禄・慶長の役のはじまりであること、そして、右戦争の結果、多数の朝鮮人俘虜が日本に連行され、製陶、印刷などの技術、書籍・芸術品が日本にもたらされたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

以上の認定事実に照らすと、本件原稿のようにたんに「道を朝鮮に求め」と記述するのみでは、前記のような日本と朝鮮との関係につき生徒にこれを十分理解させることが困難であると思料されるので、検定基準に照らし内容の選択の誤りとした前記検定意見は相当である。

もつとも、原告は、本件原稿と同様の記述でありながら検定に合格している教科書があり不公平であると主張し、〈証拠〉によれば、いずれも昭和三八ないし三九年の検定に合格した教科書のうち、竹内理三著「日本史改訂版」(自由書房発行)では「また明との貿易を再開しようとしたが、意のごとくならず、ついには明を征服しようとして、朝鮮に大軍を送るにいたつた。」と記述し、和歌森太郎・芳賀幸四郎共著「詳説新日本史改訂版」(二宮書店発行)では「秀吉は明との貿易の再開を望み、朝鮮にその仲介を求めたが、朝鮮が拒絶したので、一五九二年(文禄元)朝鮮に出兵し、」と記述し、豊田武著「新版要説日本史」(中教出版発行)では「秀吉は早くから明(みい)を征服するため、まず、朝鮮遠征の意図を示していたが、(中略)一五九二(文禄(ぶんろく)元)年三月、一五万の大軍をもつて朝鮮に出兵し、」と記述し、西岡虎之助著「高校日本史新訂版」(実教出版発行)では「秀吉はかねてから明(みん)への出兵を志していたが、全国を統一すると、急速に準備を進め、一五九二年(文禄(ぶんろく)一)、まず朝鮮に大軍を送つた(文禄の役)。」と記述されていることが認められるが、右教科書では、例えば「朝鮮に仲介を求め」とか「明(みん)を征服するため、まず朝鮮遠征の意図を示して」などと、わが国と朝鮮との関係につき触れた記述となつているのみならず、前記指摘箇所に付されたのはB意見であるから、これを修正するかどうかは著作者の意思決定に委ねられているので、そのことだけを捉えて不公平であるとするのは当らない。したがつて、右のことも前記結論を左右するものではない。

(整理番号116)―原稿一一〇頁一ないし四行

(一) 本件原稿の「穢多は住居も一定の場所に制限され、一般の人民との結婚も禁止されていた。賤民に対する差別待遇は、町人・百姓の下に一段低い身分を設けることによつて、百姓・町人の武士に対する不平をそらすためであつたと考えられている。」との記述に対し、文部大臣は、「一段低い身分を設けることによつて」という記述によれば、賤民という身分が江戸時代にはじめて設けられたもののような理解を生徒に与えるものであるが、しかし、穢多という身分は、江戸時代よりはるかに古い時代から存在していたものであるから、この記述は検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、本件原稿にも律令制度の説明として「多くの特権を持つ貴族・官吏と、良民である一般の公民と、家人(けにん)・公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)などの賤民(せんみん)との間には、著しい身分上の差別が加えられた。②公奴婢は官庁の奴隷であり、家人・私奴婢は私人の使役するもので、それぞれの財産とされ、家畜同様に売買された。」と記述されている(二九頁)ように、穢多とか賤民は中世のはじめに既に存在しており、江戸幕府創設当時には主な街道に沿つた穢多の部落は「丁はずれ」ということで里数にも数えられなかつたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。

前記認定事実に照らすと、穢多など賤民という身分は少なくとも中世初期には既に存在していたことが歴史上確認されているのであるから、本件原稿のように、たんに「一段低い身分を設けることによつて」と記述すると、生徒に賤民という身分制が江戸時代にはじめて新設されたかのように誤解されるおそれがあるものと思料される。もつとも、原告は本件原稿にも前記のように律令制当時既に賤民制というものが存在した旨の記述がなされている以上、右指摘箇所において「一段低い身分を設けることによつて」と書いても、これを被告主張のように「新たに設ける」という意味に誤解するおそれはなく、これを前後の文脈から正しく理解すれば「そのような身分制度を維持した」という趣旨に理解されうる旨主張するけれども、右律令制の記述は本件原稿の二九頁であり、江戸時代における身分制度に関する前記述は一一〇頁であつて場所的にかなり隔りがある上、高等学校の生徒が、この両記述の関連づけを考慮し、「設ける」という言葉から原告主張のように「維持した」というように理解するというようなことは一般に困難であろう。なお、渡辺証言によると、同人の著書「未解放部落史の研究」には「近世初当では良民と賤民との間の階級的差別は法的にはまだ厳重に設けられていなかつた」との記述があり、「身分的地域的差別の設定」という見出しが書かれていることも認められるけれども、これは同証人の個人的学説であつて、これにより右結論を左右するものではない。

なお、原告は本件原稿と同様の記述でありながら検定に合格している教科書もあり不公平であると主張し、〈証拠〉によれば、検定済教科書である西岡虎之助著「高校日本史新訂版」では「これら全身分の下に穢多(えた)・非人(ひにん)などといわれる賤民(せんみん)の身分がおかれた。」と記述し、同じく、時野谷勝、原田伴彦、直木孝次郎共著「日本史」(実教出版発行)では「農工商の下に、穢多(えた)・非人(ひにん)などといわれる賤民(せんみん)身分が特別に設けられた。」と記述されていることが認められるが、前記指摘箇所に付されたのはB意見であるから、これを修正するかどうかは著作者の意思決定に委ねられているので、そのことだけからことさら原告の本件原稿が不公正な取扱いを受けた証左とはなし難い。

してみると、本件原稿の前記述は検定基準に照らし不正確であるというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号119)―原稿一一一頁二四行ないし〜一一二頁四行

(一) 本件原稿の「また公家諸法度と並んで武家諸法度①を定め、城郭の新築改修や大名どうしの婚姻をかつてに行なうことを禁ずるなど、多くの制限を加えた。また参勤交代(さんきんこうたい)と称し、諸大名を原則として一年おきに江戸と領国とに交代に住まわせ、その妻子を常に江戸にとどめて事実上の人質(ひとじち)とした。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、武家諸法度は、江戸幕府の武家統制の基本法令であり、その制定は幕藩体制確立の支柱の一つとなつた重要な措置である。しかるに、これが定められた年代が本文に記述されてなく、年表における記述にとどまつている(なお「公家諸法度と並んで武家諸法度を定め」とあつても、それが定められた時期は必ずしも明らかにはならない。)。したがつて、幕藩体制確立の基点ともいうべき武家諸法度がはじめて定められた時期について的確に理解させる配慮に欠けている。さらに、武家諸法度は秀忠がはじめて定めたものであり、参勤交代を義務化したのは家光の定めた武家諸法度であるが、右記述では、このような時期的推移についての記述上の配慮をまつたく欠いており、このため、秀忠から家光に至る江戸幕府の武士(とくに大名)に対する統制強化の過程を理解することが困難となつている。したがつて、この記述は全体として、学習指導要領の日本史の内容(6)「‥‥江戸幕府が幕藩体制を確立するまでの過程を、理解させる」上に適切でなく、同要領の目標(2)「‥‥時代の性格を明らかにし、その歴史的意義を考察させる。」という目標に照らし適切でないので、検定基準の示す内容の選択に誤りがある場合に当るというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、武家諸法度は大名統制の基本法令であつて、その制定は幕藩体制確立の支柱ともいうべき重要事項であるから、その年代を本文中に掲載することが生徒の理解をすすめる上で適切であること、ただし、武家諸法度は元和元年(一六一五年)徳川家康が僧崇伝に起草せしめたところを大坂城落城後二か月の同年七月七日に伏見城において将軍秀忠が諸大名に対し公布したものであつて、一三か条より成り、家光のとき八か条増補し、爾後も将軍の代替りごとに修正を加えられたものであるが、歴史教科書では最初に制定されたときを取り上げるのが一般的であること、さらに、参勤交替を制度化したのは家光の定めた武家諸法度によるものであることが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、江戸幕府において幕藩体制確立のため武士とくに大名に対する統制強化の過程を生徒によく理解させるためには、教科書の記述として秀忠が武家諸法度を定めた年代を本文中に明記し、さらに参勤交代が家光のときに制度化されたことを明らかにすることが適切であると思料される。したがつて、これと同旨の右検定意見は相当である。

(整理番号124)―原稿一一四頁一五ないし二三行

(一) 本件原稿の「嫁入り婚が原則となり、男尊女卑の風がはなはだしく、女性の社会的地位は、日本の歴史上かつてないほどに低下した。男は妾(めかけ)を持つことが少しも悪いこととされない反面、妻・妾はひとりの夫に固く貞操を守らねばならぬとされ、その義務にそむいた女は殺されてもしかたがないとされた。夫の一方的意思で妻を離別できるばかりでなく、しゆうと去りと言つて、しゆうと・しゆうとめが嫁を追い出す習慣も認められていた。これは、一つには個人よりも家が尊重されていた結果でもあつたから、入り婿の場合の婿は、家の権威を代表する家つき娘の前に小さくなつていなければならなかつた。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、この箇所は当時の女性の社会的地位が低かつたことを述べるにあたり、当時それほど一般的であつたとは考えられない妾の例を出して「男は妾(めかけ)を持つことが少しも悪いこととされない反面、妻・妾はひとりの夫に固く貞操を守らねばならぬとされ、その義務にそむいた女は殺されてもしかたがないとされた。」と強調している。その結果、記述全体からみて、当時の男性は一般にきわめて身勝手なものであつたかのような印象を生徒に与えるものとなつている。もつとも、後段では「これは一つには個人より家が尊重されていた結果でもあつた」として、子を得え家を存続させるために妾を持つことなどを肯定しようとした当時の一つの考え方について述べており、男性がまつたく身勝手であつたのではなかつたかのような示唆を受けるが、そのような記述によつても生徒の前記のような印象をぬぐい去ることは困難である。このままの記述では、当時の男性の対女性関係について誤解を与え、ひいては男女の社会的地位を適切に理解させる上に支障となつており、検定基準に照らし表記・表現が適切でないというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人村尾次郎の証言によると、武家社会においては非戦闘員である女性の地位が低いのは洋の東西を問わず共通にみられる現象であつて、江戸時代に限られたのはでないし、男性が妾を持つということも一部の富豪などに限られ、これが一般的に行なわれたものではないこと、反面、女性は母ないしは一家の女主人として家族員からだけではなく、社会的にも相応の尊敬を受けていたのであり、妻は決して夫に隷属していたのではなかつたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

そうすると、原告が本件原稿において、当時の女性の社会的地位が低かつたことを述べるにあたり、右認定のごとき事実を考慮にいれることなく「男は妾(めかけ)を持つことが少しも悪いこととされていない反面、妻・妾はひとりの夫に固く貞操を守らねばならぬとされ、その義務にそむいた女は殺されてもしかたがないとされた。夫の一方的意志で妻を離別できるばかりでなく」と記述したのは、教科書として表現にやや適切を欠く嫌いはないでもないが、右証人の証言においても、江戸時代において男尊女卑の風が強く、女性の地位がきわめて低かつたこと、男より妻や妾の貞操義務が厳しく要求されたことなど本件原稿における前記述の基本的事実はこれを肯認しているのである。

そして、本件原稿における右指摘箇所は、男尊女卑の風について述べた部分と家の制度のもとにおけるしゆうと・しゆうとめと嫁、入り婿などの関係を記述した部分より成り立ち、格別文脈が難渋であるとは認め難い。

したがつて、前記述は、文部大臣指摘のように、その表現において、当時の男性が一般にきわめて身勝手なものであつたかのような印象を生徒に与えることにより当時の男性の対女性関係について誤解を与え、ひいては男女の社会的地位を適切に理解させる上で支障となつているものとまでは認められないので、この程度の記述であれば、原稿記述に対する修正意見をさし控えるのが著作者の表現の自由と検定制度とを調整するゆえんであると思料される(前記第三の四の2、3)から、結局、前記検定意見は不当というべきである。

(整理番号131)―原稿一二八頁七ないし八行

(一) 本件原稿の「町人にとつて武士階級が最大の顧客であつたから、正面から武士に反抗できなかつたのは当然である。」との記述に対し、文部大臣は、この箇所では「町人が武士に反抗できなかつた」理由として、もつぱら「武士階級が最大の顧客であつた」という経済的な面のみを取り上げるにとどまり、そのほかに考慮さるべき身分の区別等の政治的、社会的な理由についてはまつたく配慮を欠き、検定基準に照らし正確性を欠いているとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人貫達人の証言によると、町人が正面から武士に反抗できなかつたのは、城下町などにあつて武士は町人にとつて最大の顧客であつたという経済的理由のみならず、身分の区別等政治的、社会的理由もあつたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、高等学校用教科書の「町人の社会的勢力」の項において、町人が武士に正面から反抗できなかつた理由について説明するにあたり、たんに武士が最大の顧客であつたという経済的理由のみを掲げ、他に前記のような政治的、社会的理由もあつた旨の記述を欠くことは、検定基準に照らし正確性を欠くものというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号132)―原稿一二八頁注①

(一) 本件原稿の「家康は、天台宗の僧天海(てんかい)や禅僧崇伝(すうでん)を政治顧問に用いたが、儒学者にせよ仏僧にせよ、その知識を利用しただけであつて、その思想を重んじたのではなかつた。」との記述に対し、文部大臣は、家康は例えば僧天海に対しては自らの精神生活の師として接しており、このように「その知識を利用しただけであつて、その思想を重んじたのではなかつた」と記述することは、断定に過ぎ、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人貫達人の証言によれば、例えば、天海などは、信仰の面では家康の帰依を一身に集め、政治上の顧問としても家康から厚く信任されていたことが認められ、他にこれに反する証拠はない(甲第二〇七号証も主として家康が儒者に対しこれを重んじようとしたものではなく、知識を得べきものを利用するに憚らなかつたとしているに過ぎない。)。

右認定事実に照らすと、本件原稿のように「儒学者にせよ仏僧にせよ、その知識を利用しただけであつて、その思想を重んじたのではなかつた。」と断定的に記述するのは不正確であつて、検定基準に照らし正確性を欠くものというべく、これと同旨の右検定意見は相当である。

(整理番号136)―原稿一三六頁三ないし五行

(一) 本件原稿の「神道では、山崎闇斎の垂加神道(すいかしんとう)など、儒学者で神道の教義を立てる者が出たが、学者が机の上で考え出した理論にすぎず、民衆の生きた信抑とは関係がなかつた。」との記述に対し、文部大臣は、この箇所においては当時の学問の興隆に伴い、その動きの一つとして、従来神職などのきわめて限られた人々によつてのみ論じられた神道の教義が、儒学者などの知識人によつて論じられるようになつたことがまつたく配慮されておらず、また、この記述のように「民衆の生きた信抑」との関係の面から特記しているのは、当時の学問の発展に対する理解を誤らせるおそれがあるし、さらに、垂加神道が例えば竹内弐部、山県大弐の思想や幕末の尊王論などのちの政治や思想に影響を及ぼした重要な事実がまつたく無視されており、検定基準に照らし内容の選択を誤つているとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

江戸時代末期の尊王思想の発達と展開は同時代の政治思想史の学習においても無視できない重要な事項であると思料されるところ、証人貫達人の証言によれば、山崎闇斎の垂加神道は他のいわゆる儒家神道と同様牽強付会の面もないわけではないが、これが竹内式部、山県大弐(山県大弐については垂加神道の影響は付随的であるとする見方もある。)ら幕末の尊王論者に強い影響を与えていることが認められるから、高等学校の歴史教科書において、この点に関する教育的配慮を払うことなく、本件原稿のように「学者が机の上で考え出した理論にすぎず」と記述することは、検定基準に照らし学習指導要領の日本史の目標(4)「わが国の学問、思想、宗教、芸術などの文化遺産についてその理解を深め……」とする教科の目標に合致せず、内容の選択が適切でないといわざるをえないので、前記検定意見は相当である。

(整理番号137)―原稿一三六頁六ないし一六行

(一) 本件原稿の「この時代になると……女子の帯の幅が広くなり、小袖のたもとが長くなつて振袖(ふりそで)が出現した。……この時代に完成した和服の基本的な形は、あまり肉体を働かさない都市住民の生活から生まれたものであるため、活動にははなはだ不便であつた。ことに女性の和服は、この時代の女性の社会的地位が低かつたところから、著しく不自然な要素を含んでいた。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、この記述において「著しく不自然な要素」とは、具体的には「女子の帯の幅が広くなり、小袖のたもとが長くなつて振袖が出現した」ことをさすものと認められる。女性のそのような服装について身体活動の面のみからこのように「不自然な要素」として把握すること自体適当とは認め難いが、さらに、「女性の社会的地位が低かつた」こととこのような女性の服装との間に本来そのような直接的な因果関係があると認めることは困難である。したがつて、当時における庶民の生活と文化の向上に伴い優美となつた女性の服装が、女性の社会的地位の低さによるものであつたとするのは、一面的な断定に過ぎ、当時の社会や文化について生徒を誤解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが推認される。

証人村尾次郎は次のように証言している。すなわち、本件原稿には、江戸時代の「和服の基本的な形」が「あまり肉体を働かさない都市住民の生活」から生まれたとあるが、都市の住民一般があまり肉体を働かさないものであるという認識ならば誤りであり、また、都市住民のなかのあまり肉体労働をしない人の着ていたものという意味であれば、必ずしも全面を蔽う記述ではない。むしろ「あまり肉体を働かせない場合の服装」として出てきたのではないかと認められる。例えば、都市の男性、農村の男女ともに労働に即した活動的な服装をしていたが、ただ、商店員のように接客の必要がある業種では一般の和服に近い服装をしていた。たしかに女性の服装と髪型は活動的でない一面があるが、当時の町家暮しにおける女の労働は掃除や家事などが主であつたから、一概に不便、不自然というほどのものではなく、和服が活動的でないということが強く感じられるようになつたのは、日本人が洋服を着用するようになつた近代の生活様式のなかにおいてである。元来、服装というものは気候風土、あるいは社会生活の習慣に適応してつくられるものであつて、その時代の生活に適合していればよいのである。一概に女性の服装といつても、一般家庭の普段着、外出着、礼服が別があるし、また、職業上華美を要する婦人服など特殊なものまであつて複雑である。原告は主として晴着とか接客婦の衣裳について論じているように思われるが、かような場合はむしろ華美と流行を追い、その流行が一般家庭に影響を及ぼすことはありうるが、一般女性の普段着はそれほど異様なものでも華美なものでもなかつた。したがつて、女性の服装一般が女の社会的地位の低さからきた不自然なものと断定するのは、生徒にその当時の服飾の一般的、自然的状態について誤解させるおそれがあると。

右証言に照らすと「女性の社会的地位が低かつたこと」と「女子の帯の幅が広くなり、小袖のたもとが長くなつて振袖が出現した」という当時の女性の服装との間に本件原稿のような直接的因果関係を肯認することは困難であり、むしろ、同証言および弁論の全趣旨によると、それは当時の社会における経済的、文化的な生活上の変化に従つて出現してきたものと認めるのが相当である。もつとも、成立に争いのない甲第一九五号証(堺枯川著「家庭の新風味」)によれば、「女服改良の説」として「袖の長短は女権の伸縮(しんしゅく)と反比例をなす者で、袖の長い間は女権は縮(ちぢ)んで居る。袖が短くならねば女権は伸びぬ。」と記述されているが、これは右図書が出版された明治三四年頃、日本女性の服装を近代化せんことを意図した論説であり、「大振袖は太平時代の御姫様の風俗で婦人が男の玩弄品(ぐわんろうひん)として家の内に据(す)えられて居た時の事である。競争(きようそう)の烈(はげ)しい二十世紀の婦人が男と立並んで働かうと云うには、どうしても凛(りり)しい箇袖でなければならぬ。」との記述(一五一頁)に続くものであつて、右論旨を浮彫りにするため、女性服装の一面的な要素をあえて強調し、比喩したものとみられ、これも前記認定の妨げとなるものではない。

加うるに、ある時期における人の服装というものは、人間の服飾欲ともいうべき共通の性情から種々の流行を生むことも否定できないのである。

してみると、本件原稿の前記述は、一面的な断定に過ぎ、当時の社会や文化について生徒を誤解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択が適切を欠くというべく、前記検定意見は相当である。

(整理番号138)―原稿一三八頁注①

(一) 本件原稿の「賄賂は、身分秩序に拘束された町人が、政治上に力を伸ばすための一つの方法であつた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は同頁にある江戸時代の「田沼の政治」の頃の「しかし、商人との接触が多くなると、賄賂(わいろ)①が流行した。」という記述の脚注として述べられたものであるが、田沼時代に賄賂が流行したのは、老中田沼意次自らが贈賄し、収賄したという事実によるところが大きいのであつて、この点にまつたく触れないで町人の身分秩序への拘束の面に結びつけて特筆しているのは、田沼時代に流行した賄賂の説明として適切でなく、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたものと推認することができる。

証人貫達人の証言によると、前記述が、江戸幕府が、田沼時代に賄賂が流行したのは老中田沼意次自らが贈賄し、収賄するなど全体的に綱紀が棄乱していたからであるという背景的原因をおさえないで、町人の身分秩序への拘束という点からだけ述べているのは一面的に過ぎて適切でないことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実によると、前記述は検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとした右検定意見は相当である。

(整理番号145)―原稿一四九頁五ないし九行

(一) 本件原稿の「しかし、国学者は日本古代のことを書物の上で研究しているだけで、日本の現実社会と取り組もうとしなかつたし、また儒学の中国崇拝の反動として逆に偏狭な日本中心主義をふりかざしたため、その科学的な態度を徹底させることができなかつた。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、右記述は国学者たちのそれぞれの立場や背景となる時代の状況を無視して一律に論断しているものであり、国学者についていたずらに生徒に否定的影響を残すものであつて、その正しい理解を与えるものではない。また、この記述にはのちの原稿一五三頁にある「篤胤の国学は、郷士・豪農層の人々の間に強い感化を与えた。」とあるような国学者についてあつた事実について必要な配慮が払われておらず、国学者の批判として必ずしも適切なものではない。このような記述は学述は学習指摘要領の日本史の内容(7)の「……旧来の学間・思想に対する批判を含む国学、洋学などの発達……について考えさせる」上で適切でなく、また、同目標(4)の「わが国の学問……などの文化遺産についてその理解を深め、親しみ尊重する態度を育て……」るという目標を達成する上でも適切ではなく、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

証人貫達人は、学問について論ずる場合、学問の発生、発展、消滅という時間的要素や学問の性格、学者個人の性格など各種の要素があり、これらを総合して論すべきであつて、本件原稿の記述のように、一面的にのみ国学者について論ずるのは生徒に国学者について正しい理解を与えるものではなく、また、この記述は学問がすべて日本の現実社会と取り組まなくてはならないと誤解されるような内容である旨の証言をしている。

右証言に照らすと、本件原稿の前記述は国学者のとつた学問的態度について、その時代的背景等を無視して一律に論断、批判するものであつて、教科として適切でなく、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるものというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号152)―原稿一五六頁七ないし九行

(一) 本件原稿の「一七九二年(寛政四年)その使いラツクスマン(Laxman)(一七六六〜一七九六?)が根室(ねむろ)に来て貿易を求めたが、幕府は……拒絶した。」との記述に対し、文部大臣は、「拒絶した」とあるが、拒絶したのではなく、対外関係については長崎において扱われている旨を伝えたものであつて、この記述は不正確であり、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、ラックスマンは根室に来てわが国に対し通商を求めるとともに、わが国の漂流民二名を送還してきたので、幕府老中松平定信は、松前藩に対し、せつかくわが漂流民を送還してきたことでもあり、日本の防禦が十分できていないということで断固交易を拒絶するとかえつて争いを生じ隙をつくることにもなるので、このたびは交易関係のことは長崎の官吏が権限をもつているので希望であれば長崎へ行くがよいといつて、そこへ入港できる信牌を授け、その上で商取引を長崎で行なうか蝦夷地で行なうかゆるゆる協議することとする旨の訓令を発したこと、のちに文化四年(一八〇四年)ロシヤのレザノフが長崎へ来航したのは右に基づくものであることが認められ、他に同認定に反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、幕府はラックスマンに対し通商を拒絶したものとまではいえないから、本件原稿の前記述は誤りであり、右検定意見は相当である。

(整理番号156)―原稿一五六頁二三ないし二四行

(一) 本件原稿の「極東艦隊司令官ペリー(Perry)」との記述に対し、文部大臣は「極東艦隊」は「東インド艦隊」(East India Squadron)の誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉によれば、日本に来航当時ペリーが幕府に差し出した文書に記された同人の肩書は「Commander-in-chief of the United States Naval Forces in the East India,China,and Japan Seas」(東印度・支邦・日本海に在る合衆国海軍司令官)とあることが認められるが、これを簡略化して表現する場合、いかなる用語が適切かは必ずしも明瞭ではないが、〈証拠〉を総合すると、これを「東インド艦隊」と略称するのが一般的であり、「極東艦隊」と略称する事例は稀有のことと認められる。そうすると、教科書の用語としては、従来から慣用化したもの、あるいは一般に使用されているものを用いるのが生徒の教育上適切であると思料されるので、この点からして本件原稿のように「極東艦隊」では不正確であり、右検定意見は相当であるといわなければならない

(整理番号162)―原稿一六一頁六ないし八行

(一) 本件原稿の「民衆の下からの要求に基礎を置かない現状打破の運動が、権威のよりどころとして結びついたのは皇室であつて、明治維新の基本的な性格は、このような動きの中で形造られていつた。」との記述に対し、文部大臣は、この記述は「明治維新の基本的な性格」の形成過程を、その一面けを取り上げて説明しているものであり、明治維新が諸外国との関係や封建社会の崩壊という過程のなかで実現されたことについて配慮されていないので、検定基準に照らし内容の選択が適切でないとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉によれば、明治維新の主力となつた志士たちは武士であつたために、藩主を廃して封建制度を廃滅に追いやることまでは飛躍しなかつたことが認められるが、本件原稿の前記述のうち「民衆の下からの要求に基礎を置かない現状打破の運動」という記述部分は、左記理由により適切を欠くものというべきである。すなわち、証人渡辺実の証言によると、幕末には下級武士や農民の困窮が著しくなるに伴い、明分論や尊王論は安民論と結合し、政治改革の意見にはともに欠くことのできない要素となつていたこと、例えば、明和三年(一七六六年)に刑死した山県大弐の著した「柳子新論」や寛政期の尊王家蒲生君平著「今書」などにも、右事情は表われており、「柳子新論」の「天民」「編民」「勧士」「安民」「守業」「通貨」「利害」など、また「今書」には「革弊」「賦役」「金穀」などの諸章が設けられ、それぞれ社会や経済の行きづまりを打開する根本方針について触れていること、彼らは浪人学者であつて、民間の事情にも通じておつて、幕末の志士たちに少なからず影響を与えたことが認められる。したがつて、志士たちの現状打破運動が「民衆の下からの要求」に基づいていない運動であると断定するのは適切ではない。

また、本件原稿の前記述では、志士たちの現状打破運動が権威のよりどころとして何故に皇室と結びついたのか生徒に理解が困難である。

以上のごとく、明治維持の基本的な性格の形成過程を生徒に理解させる記述としては全体として不適切であり、検定基準に照らし内容選択に誤りがあるというべきであるから、右検定意見は相当である。

(整理番号173)―原稿 近代社会の年表

(一) 本件原稿に、インドシナが仏領となつた年を一八八五年と記述したのに対し、文部大臣は、インドシナが仏領インドシナ連邦となつたのは一八八七年のことであるから、この記述は誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉によれば、フランスは一八八七年インドシナ総督府を設け、直轄植民地であるコーチシナと、保護国であるカンボジア、トンキン、アンナン(ヴエトナム)を総轄させ、のちには、さらに新しく保護国となつたラオスをもこれに加えて連邦を組織させたが、それ以来これらの地域をインドシナと呼ぶようになつたと東洋史辞典に記載されていることが認められ、また、証人渡辺実の証言によると、清仏戦争の結果、清国は「天津において仏国と和を議し、一八八五年四月、条約一〇箇条を締結し、仏国の越南における保護権を認め、(中略)これにより仏国は、さらにカンボジヤヤにおいて保護権を獲得し、西暦一八八七年に交趾支那の植民地と安南、カンボジヤの保護領を合併して仏領インド政府を組織し、総督を置き、全体を統括せしむ。しかして安南国は、僅かに内政の一部を処理しうるも、外交その他重要問題は、すべて仏国の監督を受けることになつた。」(岩村充光著「安南通史」二四頁参照)ことが認められる。

他方、〈証拠〉はヴェトナム王朝の滅亡が、〈証拠〉はフランスがヴェトナムに対する保護権を獲得したのが、いずれも一八八五年であることに言及しているに過ぎず、この時期とフランスが右諸国に対し植民地行政を統轄するようになつた時期とは区別すべきものであること明らかである。

以上の認定事実に照らすと、インドシナが仏領となつた年というのは、フランスが直轄植民地であるコーチシナと保護国であるカンボジア、トンキン、アンナン(ヴエトナム)を合併して(のちラオスを加える。)仏領インド政府を組織させ、総督府を置いてこれを統轄させた一八八七年であるとするのが相当である。

そうすると、本件原稿の記述は誤りであつて、右検定意見は相当である。

(整理番号181)―原稿一六八頁一八ないし二一行

(一) 本件原稿の「一八六八年(慶応四年)三月、明治天皇は『五か条の御誓文(ごせいもん)』において、公論を尊重し、開国進取の政策を取る新政を示した。しかし、他方では、徒党・強訴(ごうそ)・逃散(ちようさん)・キリシタンを禁止する高札(こうさつ)(五榜(ごぼう)の高札)を掲げて、江戸幕府の民衆統制を受け継ぐ方針をも明らかにしている。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、明治維新についての記述であれば、江戸時代の制度が改革されていく面を説明するのが本筋であるにもかかわらず、右記述では旧制度をそのまま受け継いだという面が強調され過ぎていて、このため改革面についての取り上げ方が不十分となつている。例えば、五榜の高札の記事に比べ五か条の御誓文の内容の記述は簡略であり、また、五榜の高札の記述自体においても江戸時代の旧制度をそのまま受け継いだという点に力点が置かれている。すなわち、五榜の高札とは、明治元年三月に大政官が旧幕時代の高札を徹去し、その代りに立てた制札のことであるが、第一は五倫を勧め、殺人・盗みなどを戒め、第二は徒党・強訴・逃散を禁止し、第三はキリシタン・邪宗門を禁止し、第四は外国交際の万国公法に従うべき旨を述べ、外国人殺害などの暴行を戒め、第五は士民の本土脱走を禁じたものであるが、前記述は第二と第三のみを取り上げている。五榜の高札についてこのような取り上げ方をするのであれば、これと前後して出された政体書について記述しないと、明治維新の記述としてはバランスを失する。かくのごとく、前記述は検定基準に照らし内容の選択を誤つているというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

五か条の御誓文および五榜の高札はいずれも一八六八年(明治元年)三月一四日まさに倒幕軍が江戸城総攻撃にかからんとする頃発表されたものである。そして、五か条の御誓文は明治天皇が王政復古に当つて示した新政の基本方針であり、五榜の高札は治安維持のための制札であり、その内容は次のとおりであつた。第一榜では三つのことを掲げ、その(1)は五倫(君臣・父子・夫婦・長幼・明友の間がらに守るべき道)の道を正しくせよ、(2)は鰥(老いて妻なき者)・寡(老いて夫なき者)・孤(幼くして父のない者)・独(老いて子なき者)・廃疾(病気の者)を憐れめ、(3)は人を殺し、家を焼き財を盗む等のことをやるなということを示している。第二榜では徒党を組み、強訴したり、逃散してはならない。第三榜ではキリシタンを禁ずるというのである。そして、以上の三か榜は永世の定法であると述べている。第四榜は外国人に暴行をするなということ、第五榜では罪を逃れるために外国に逃げるなということを示し、そして、第四榜と第五榜は一時守るべきものであるという趣旨を述べている。

ところで、右五榜のうち、第三榜のキリシタン禁制のごときは、封建的色彩の名残をとどめるもので、政府は明治元年六月長崎浦上のキリスト教信者三千余名全員を流罪とし、苦役を科したが、これに対し在日公使団は一斉にわが政府に抗議した。しかしながら、それ以外のものは概ね古今に通ずる徳目に類するものであつて、五榜の高札制定の真意もあくまで墓末動乱期の秩序維持対策にあつたのである。

また、同年四月公布された政体書は、一五か条よりなる維新政府の組織法であり、五か条の御誓文が国是の大本を示したものであるのに対し、政体書はこれを具体化し、立法・司法・行政の三権分立のもと貢士選出による公議与論に基づく庶政の議決、公選による官吏の任命などを規定していた(ただし、これはそのとおりに実現されずに一八六九年((明治二年))二官六省制が設けられた。)。

以上の認定事実に照らすと、本件原稿のように、五榜の高札により維新政府が「江戸幕府の民衆統制を受け継ぐ方針をも明らかにしている」とするのは正当ではなく、また、教科書の記述として五榜の高札につき本件原稿程度に取り上げるならば、三権分立の統治原則を明らかにした画期的な政体書についても触れるのが教育上適切であると思料されるから、前記述は検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるものといわざるをえない。したがつてて、右検定意見は相当である。

(整理番号188)―原稿一七四頁一ないし五行

(一) 本件原稿の「新政府は、徳川幕府が不用意に結んだ不平等条約の改正交渉を兼ねて、」との記述に対し、文部大臣は、不平等条約は、当時のわが国をめぐる国際情勢が緊迫していたこと、わが国の国力が諸外国に対抗するには著しく不足しているという認識があつたこと、長い鎖国ののちにはじめて当面したことでもあり、幕府当局の国際法に対する理解が十分でなかつたことなど、種々の条件のもとに締結されたものであり、これをその結果だけからみて単純に「不用意に結んだ」とする表現は適切でなく、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉によると、幕末の頃江戸幕府が欧米諸外国と取り結んだ条約は、わが国にとつて関税、治外法権などの点で一方的に不利益な内容のものであり、これは当時幕閣の関係者がその機会があつたにもかかわらず、条約の何たるかにつき十分研究、調査もしないで倉卒に締結したものであることが認められ、本件原稿がこれを「徳川幕府が不用意に結んだ不平等条約」と記述しても別段表記・表現が不適切であるとも考えられない。もつとも、証人渡辺実は、不平等条約であるという日本人の意識は明治初年になつて新政府の指導者たちが条約改正に乗り出したときから生まれたもので、長い鎖国政策のため国際法を知る由もなかつた当時としてはやむをえないものであり、これを「不用意に結んだ」とする表現は適切でないとして、坂田精一著「ハリス」のなかの論述を引用しつつ証言しているが、本件記述箇所が不平等条約を締結した当時に関する記述ではなく、明治新政府がその条約改正に乗り出した時代の記述でもあり、前掲各証拠に照らし右証言を採用することはできない。

したがつて、文部大臣が本件原稿の前記述につき表記・表現が不適切であるとしたのは不当である。

(整理番号190)―原稿一七四頁注②

(一) 本件原稿の「下関条約において、清はついに沖繩が日本の領土であることを認めた。」との記述に対し、文部大臣は、下関条約には沖繩が日本の領土であるとする条項はないので、この記述は誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、文部大臣の右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが推認される。

下関条約には沖繩が日本の領土であることを認めるとする条項のないことは原告もこれを認めるところである。しかしながら、原告は清国が日清戦争に敗北するまで沖繩を日本の領土として決して認めていなかつたのであるから、下関条約の交渉において沖繩の領土問題につき直接触れなかつたことは、清国が沖繩の日本所属を認めたことになるのであり、すなわち、同条約において台湾すら日本の有に帰した以上、まして沖繩が日本に帰属したことは明らかであつて、沖繩帰属の時点を下関条約によるとしても不合理ではないと主張するけれども、それは日清戦争により下関条約が締結され、同条約に基づき台湾が日本の領土に帰した結果、清国が自然に沖繩を日本領土と認める結果となつたものであつて、それを本件原稿のごとく「下関条約において、清はついに沖繩が日本の領土であることを認めた。」と記述するのは不正確である。したがつて、その旨を指摘した右検定意見は相当であるといわなければならない。

(整理番号195)―原稿一七八頁一四ないし一六行

(一) 本件原稿の「政府は一八七二年(明治五年)、明治初年以来政府の発行した不換紙弊に代わる兌換(だかん)銀行券を発行させるため、紙幣発行権を持つ国立銀行の制度を作り……」との記述に対し、文部大臣は、これは「封建制度の廃止と近代産業の育成」の節の「財政政策とその影響」の項にある記述であるが、明治初年における財政政策についてはたんに国立銀行の創設等について述べられるにとどまり、維新政府によつて行なわれた円・銭・厘の十進法の採用が、旧来の複雑な貨幣制度を改め、近代的な一元的貨幣制度を導入した点において、国立銀行の創設等とともに大きな意義をもつものと考えられるにもかかわらず、この点につきまつたく記述されていないため、この記述は維新政府により実施された財政制度の近代化方策についての十分な理解の妨げになつており、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言によると、明治維新後の新政府は、財政政策として、旧来本位貨幣・補助銀・銅貨および貿易銀ならびに各種の不換紙幣が流通して著しく混乱していた貨幣制度を改め、全国通用の良質な正貨を確保する一元的な貨幣制度をうちたてることにより、近代的産業の発展を意図したこと、そこで明治四年円・銭・厘の十進法が採用され、それが現在に至るまで継続しており、この十進法採用は、本位制採用、紙幣発行権をもつ国立銀行の創設とともに日本経済史の上で欠くことのできない特筆すべきことがらであることが認められ(楫西光速著「日本経済史」参照)、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、前記述部分において、たんに紙幣発行権をもつ国立銀行のことだけではなく、円・銭・厘の十進法を採用した正貨のことについても触れるべきものと思料されるから、右検定意見は相当である。

(整理番号196)―原稿一八〇頁一四行

(一) 本件原稿の「民選議院設立(みんせんぎいんせつりつ)の建白書(けんぱくしよ)……」との記述に対し、文部大臣は、右は歴史上の固有の名辞であり、「選」は「撰」とするのが適切であり、前記述は検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

成立に争いのない乙第一六九号証の三一(改訂増補日本史辞典)によると「民撰議院設立建白」と記されており、原告の著作にかかる新講日本史(乙第二〇五号証)にも「撰」の字を使用している。

思うに、普通名詞として民選議院というときは「選」の字を用いることがむしろ妥当であろうが、本件原稿は歴史上一回起の固有の名辞として表示しているのであるから、その当時の用字に従い「撰」の字を用いるのが高校の教科書として正確である。原告は、国立公文書館の資料展示目録には本件原稿と同様の字を使用していると主張し、原告本人尋問の結果によれば右の事実は認められるが、このことが右判断の妨げとなるものではない。したがつて、右検定意見は相当である。

(整理番197)―原稿一八〇頁二二行ないし一八一頁一行

(一) 本件原稿の「一八八〇年(明治一三年)には国会期成同盟に発展し、全国数十万の人民の署名を集め、政府に国会開設を要求するに至つた。」との記述に対し、文部大臣は、「全国数十万の人民」とあるが、例えば、この事件にもつとも近接した時期に編集された「明治政史」(明治二五年指原安三著)には「二府二二県八七、〇〇〇余名」とあり、教字に大きな違いがあつて不正確であり、検定基準に照らし正確性を欠くものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、右記述は国会開設請願運動に関するものであるが、明治一三年(一八八〇年)の右請願署名運動は二回行なわれ、その人数につき、下山三郎は「纂輯国会建白」、「明治新聞雑誌文庫パンフレツト」あるいは「自由党史」などの資料により第一回目の人数を九六、九〇〇人と算出し、同じく第二回目の人数を他に確実な資料がないということから「自由党史」に依り一三五、五〇〇人とし、右両者を合計してその数を二四万余人としていること、しかも、第二回目は署名を集めたのみで請願は行なわれなかつたのであるから、本来請願を実行した第一回目のみの人員を掲げるのが正当であること、明治二五年に編集された「明治政史」にはその人数を二府二二県八七、〇〇〇人としていることが認められる。もつとも、右証言によると「自由党史」には「二府二二県数十万の人民の声」というように記述されていることが認められ、これは本件原稿の「全国数十万」とする記述と符合するが、同証言によると「自由党史」は明治四三年板垣退助監修のもとに同党史として編集されたもので多少自画自讃的な面があり、史料的価値において前示各証拠に劣るものと認められるので、これは前記認定の妨げとなるものではなく、他にこれを動かしうる証拠はない。

前記認定事実によると、右国会開設請願の署名数は二府二二県において最高二四万余人を上まわることはなかつたものと認めるのが相当であり(この数は原告も今日学界の定説に近いものとして認めている。)、これを「全国数十万の人民の署名を集め」とした前記述は誇張に過ぎて不正確といわざるをえず、右検定意見は相当である。

(整理番号199)―原稿一八二頁一八ないし二一行

(一) 本件原稿の「……自由党は、……弾圧のもとで政府と正面から戦つたが、……各地で急進的な党員が武力革命の挙に出るようになつた。」との記述に対し、文部大臣は、当時の福島事件や加波山事件などについて「武力革命の挙に出るようになつた」とあるが、これらの動きは、局地的に発生した事件と認められ、「武力革命の挙」というのは表現が誇張に過ぎて適切でなく、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

明治一五年から同一七年にかけて自由民権運動の過程に起きた一連のいわゆる激化事件は、デフレーションによる農村不況が直接の原因となつて地方の農村に発生した。これらは、農民を主体とし、「専制政府顛覆」と「自由自治元年」のスローガンを掲げてダイナマイトを用意した上、茨城県加波山にたてもつた加波山事件、約一万名の農民が秩父困民党と称して借金の四〇年賦返済、小作料免除等をスローガンに猟銃などで武装蜂起した秩父事件など、その規模と過激さにおいて破天荒のものであつた。しかし、全国的な自由民権運動を指導した自由党も、明治一七年当時には既に解散寸前の状態にあり、党中央幹部もまつたく指導力を喪失していたのであり、前記激化事件もこと敗れて大量処刑されるという結果となつた。これも要するに、中央指導者がいなくなり、統一と組織性を欠き、局地的に決起した結果であつた。例えば、加波山事件について史家は幕末志士的な非組織性を暴露した「テロリズム」の発現、孤立した「絶望的抵抗」、たんなる「捨石意識」のあらわれなどと評して、なかば偶発事件として取り扱い、一揆主義と同列視するものが多いとされている。このことは、他の激化事件についても同様なことがいえるのであつて、かりに彼らが主観的に「一には権臣を倒し、二には一国の義兵を集め、もつて政府を顛覆」するという革命を志向していたとしても、これを客観的に観察した場合、その実態はこれを武力革命と称するにはおよそほど遠いものであつた。したがつて、自由党史に加波山事件のことを「わが邦にありて実に露国虚無党の例に倣ひ、爆裂弾を使用して革命運動に従ふ者、これを嚆矢となす」と記述されているのは、やや身びいきの感を免れない。

以上の認定事実に照らすと、文部大臣が本件原稿の前記述につき、表現が誇張に過ぎて検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとした右検定意見は相当である。

(整理番号205)―原稿一八五頁二〇ないし二三行

(一) 本件原稿の「これが大日本帝国憲法であるが、憲法は公布の日まで秘密にされ、天皇が国民に与える欽定(きんてい)憲法として発布されたのである。」との記述に対し、文部大臣は、当時のわが国には議会のような公開の場で法令を審議すべき機関も設けられていなかつたので、ひとり憲法にかぎらず諸法令はすべて公布の日まで国民に公表されることのないのが普通であつたから、右原稿の記述では、同憲法のみが一般国民に対する特別な意図からことさらに秘密とされたような誤解を生徒に与え、ひいては右憲法について適切でない理解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

大日本帝国憲法が公布の日まで秘密にされたことは当事者に争いがないところ、〈証拠〉によれば、右憲法起草手続を公然とすべきか内密にすべきか当時の重臣中でも議論が分れていたこと、明治二〇年九月元老院有志議員が今におよんですみやかに衆議を尽さなければ、未曾有の大典に対してはじめより不満を懐かしめ、上下阻隔の不詳事に陥るやも知れないとの心情から「憲法議案ヲ下付セラレンコトヲ奏請スルノ意見書」を議長あてに提出したことが認められる。

しかしながら、証人渡辺実の証言によると、当時は右憲法公布時までその起草案を秘密にせざるをえない政治的、社会的事情にあつたこと、すなわち、当時政府首脳者の間においても天皇統治の国体を憲法上いかに構成するかなど憲法上の基本問題について意見の不統一があり、右大臣岩倉具視はプロシヤ流の草案を、また、参議大隈重信はイギリス流の草案を各起草するなど(穂積八束著「憲法制定の由来」参照)、民間を含めて多くの私擬憲法が起草され、自由民権運動に拍車をかけ、明治一四年には板垣退助を総理とする自由党が結成され、明治一六年から一七年にかけて自由党過激分子による暴動事件が続発したこと、かように困難な状勢下において憲法起草作業がおし進められたこと、したがつて、教科書において大日本帝国憲法に触れる場合、右のごとき当時における時代的背景を考慮することなく、たんに「公布の日まで秘密にされ」と記述し、その消極的評価のみを強調することは生徒に右憲法について誤つた理解をさせるおそれがあり、不適切であることが認められる。

以上の認定事実に照らすと、本件原稿の前記述は右諸点に対する配慮を欠くものというべく、文部大臣の検定意見は相当である。

(整理番号207)―原稿一八五頁写真説明

(一) 本件原稿の「官法号外の表紙、金色の菊の絞章に欽定憲法の威厳を示している。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した(なお、「官法」が「官報」の誤りであることは原告も認めている。整理番号206)。すなわち、右記述は大日本帝国憲法の載せられた官報号外の表紙の写真に付された説明文である。しかしながら、菊の紋章を使用することは、戦前においては、ひとり大日本帝国憲法にのみ特有のことではなく、郵便切手、収入印紙、紙幣、金属貨幣をはじめ、国家機関の公文書、建築物、兵器その他の物品について、広く行なわれていたところであるから、この記述は余りにも主観的にすぎる。また、このような写真に「威厳を示している」という説明文を付することは、同憲法がことさらに威厳をもつて国民に臨んだ憲法であるかのような一面的な理解に導き、同憲法のもつ近代的な側面を見失わせるおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言に弁論の全趣旨を総合すると、菊の紋章は、従来皇室の紋章として使用され、一般にはその使用が禁止されており、戦前は官庁庁舎、兵営、鎮守府、在外公館、裁判所、軍艦、兵器、信任状、旅券等の政府発行文書、貨幣、印紙・切手などに限つて使用が認められていた。とくに、金色の菊の紋章は軍艦の艦首、尾などその使用がきわめて限定され、いずれもその使用によつて国家ないしは天皇の権威を示していたことが認められ(前示渡辺証言は「権威を示していた」とはいえない旨供述するが不合理である。)、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、大日本帝国憲法の掲載された官報号外にとくに金色の菊の紋章が付されたのは、右憲法が欽定憲法であることによるものと推認できるから、本件原稿がその写真説明として「金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している」としても、右記述自体に、それが検定基準に照らし内容の選択を誤つているものとしなければならないほどの特段の事由も見出せないのである。

してみると、かような場合、著作者の思想ないしは教育的意思を尊重して原稿に対する修正意見をさし控えるのが、憲法の保障した表現の自由と検定制度を調整するゆえんであると思料される(前記第三の四の2、3)から、結局、文部大臣の右検定意見は不当というべきである。

(整理番号208)―原稿一八五頁二四行ないし一八七頁八行

(一) 本件原稿の記述は次のとおりである。

「憲法発布は、一面において民権運動の要求を入れて国会開設を実行したものであつたが、むしろ君主権を強化して国会の権限をできるだけ狭い範囲にとどめ、天皇主権の政治体制を確立することに主眼を置くものであつたと言えよう。

この憲法では、国民の公選する議員から成る衆議院を含む帝国議会を設けて、国民が政治に参与する道を開き、予算の確定および法律の制定、税制の改正などは必ず議会の協賛を要することとし、また司法権の独立も保障しており、一応は立憲政治の形が整えられてはいる。しかし、外交や軍隊の統師(とうすい)、官制の制定、議会の協賛を経ないで発しうる命令の制定など、天皇の大権を広く残したばかりでなく、国務大臣の議会に対する責任を明記しなかつたから、議会の権限はきわめて狭く限られていた。また帝国議会には、皇族・華族および勅選議員から成る貴族院を設け、衆議院を牽制(けんせい)するしくみとなつており、さらに、天皇の最高顧問として枢密院を置き、これらの国民と結びつかない機関によつて、立憲主義はいつそう制限されていたのである。

憲法では、国民は天皇の臣民(しんみん)とされた。言論・著作・出版・集会・結社の自由が認められたが、それは法律の範囲内という制限つきであつたから、これらの自由を制限する法律が引き続いて国民の思想とその表現をきびしく統制した。信教の自由も、安寧秩序を妨げず、かつ臣民としての義務にそむかない限りという条件のもとで許されたにすぎず、神宮・神社を崇敬することが国民の義務とされたので、信教の自由も無条件に保障されたわけではなかつたのである。

新聞紙条例などののちには、新聞紙法・出版法・治安警察法などが作られて、国民の言論活動・政治運動・社会運動を拘束した。官憲の一存で、出版物の発売禁止や、演説の中止、集会・結社の解散などが行なわれ、国民の自由な意志の表明が妨げられたことが少なくなかつた。」

これに対し、文部大臣は、この箇所の記述は、全体的にみて大日本帝国憲法の説明としては、現在の時点に立つてその後進性を強調する余り、その時代的背景のなかでこれが制定された歴史的な意義(例えば、同憲法は、数百年も続いた封建社会が崩壊した明治維新のわずか二〇年後において、アジア諸国に先がけて近代的な立憲政治を確立したものであつて、これを世界史的視野から眺めてみても、その意義は適正に評価されるべきである。)について配慮を欠いたものであり、検定基準に照らし内容の選択を誤つているとした。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、高等学校用教科書において大日本帝国憲法の特質を説明するにあたり、現在の視点に立つて、とくに日本国憲法との対比において大日本帝国憲法の後進性のみを強調することに終始しているような記述は、教科書として内容の均衡を失する嫌いがあること、大日本帝国憲法も、その制定された当時の歴史的諸条件の制約のなかにおける歴史的所産として、われわれの先人のなした業績を正しく理解し、評価することも歴史の学習として不可欠のことであり、この点からいえば、日本国憲法との対比において浮彫りにされた大日本帝国憲法の消極面のみならず、明治維新後僅か二〇余年にしてアジア諸国に先がけて近代的立憲政治を確立した点に対する評価についての記述が是非とも必要であることが認められる。

右認定事実に照らしても、教科書における大日本帝国憲法に関する記述としては、日本国憲法との対比において大日本帝国憲法の後進性に触れることはもとより必要なことであるが、同時に同憲法の積極的な特質についても同程度に触れるのが教科書の内容として均衡を保ち、かつ、歴史学習としての教育的配慮にそうゆえんであると思料される(なお、神宮・神社を崇敬することが国民の義務とされたとの記述は明らかな誤りである。)したがつて、本件原稿の前記述は内容の選択において不適切であるのみならず、正確性に欠ける点もあるので、文部大臣がこれを内容の選択の誤りとして指摘した本件検定意見は相当というべきである。

(整理番号209)―原稿一八七頁九ないし一五行

(一) 本件原稿の「憲法によつて、法律上から天皇主権の国家体制を確立した政府は、精神的にも国民のこの体制に対する忠誠を確保しようとして一八九〇年(明治二三年)教育勅語(きよういくちよくご)を発した。

その翌年、勅語に対して礼拝しなかつたキリスト教徒内村鑑三(うちむらかんぞう)(一八六一〜一九三〇)は、不敬漢として排斥され、第一高等中学校教師の職を失つた。そのころから学校では、御真影(ごしんえい)への最敬礼や教育勅語の捧読(ほうどく)を行なつて、国民精神の統一をはかろうとした。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は「教育勅語」という項目で述べられているものであるが、教育勅語の内容に関してはまつたく記述されておらず、しかも、内村鑑三の失職事件という教育勅語の取扱いをめぐるできごとが特筆して述べられており、教育勅語について理解させる上に甚だ不適切であるとし、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

明治二三年発布された教育勅語が、一面において戦前の学校教育を通じて国民思想統一の機能を果したことは原告主張のとおりであり、戦後の第二回国会(昭和二三年)において、衆議院では「教育勅語等の排除に関する決議を、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」をして、教育勅語を学校教育の場より排除する措置が講じられたことは、前記(第一の三の2(一))のとおりであるが、本件原稿の右記述は、「教育勅語」についての説明箇所である以上、証人渡辺実の証言にもあるように、同勅語の内容についてまつたく触れるところがなければ、教育勅語を渙発することによつて何故に「精神的にも国民のこの体制に対する忠誠を確保」することができるのか戦後に育つたいまの生徒には十分理解できないおそれがある。のみならず、内村艦三失職事件も、本件原稿の記述では教育勅語との関連が十分明確に説明されていないし、加うるに、〈証拠〉を総合すると、内村はキリスト教徒として偶像崇拝を否定する信抑上の立場から教育勅語の礼拝を躊躇したものであることが認められ、他にこれに反する証拠はない。しかるに、本件原稿の記述では、内村が教育勅語の内容そのものに反対して礼拝しなかつたのか、あるいはキリスト教の信抑上の理由により礼拝しなかつたのか不明確であり、教科書の記述としては適切ではないといわなければならない。

したがつて、右記述に対しこれを検定基準に照らし内容選択の誤りであるとした本件検定意見は相当である。

(整理番号215)―原稿一九五頁一三ないし一四行

(一) 本件原稿の「イギリスはすでにインドを完全に植民地とし、一八八六年(明治一九年)にはビルマを合併し、次いでマライ半島を領有して……」との記述に対し、文部大臣は、「次いでマライ半島を領有して」とあるが、イギリスがマライ半島を領有したのは一八二四年(文政七年)ことであるから、「次いで」とするのは誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるものとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

イギリスが「マライ半島を領有し」といえるためには、当該土地に対し事実上の支配を確立しただけでは足りず、これにつき行政・外交その他の統治行為がイギリスにより統轄される状態が出現したことを要するものと解するのが相当である(整理番号173についての説示参照)。

ところで、弁論の全趣旨によれば、被告主張の一八二四年は英蘭協定によりイギリスがその領有していたスマトラとオランダ領のマラツカを交換した年であり、当時イギリスはシンガポール、ペナン両島のほか、ペナン島の対岸の小部分を僅かに領有していたに過ぎず、その後マレー連邦州が形成されたのは一八九五年であり、バンコック条約によりタイから宗主権がイギリスへ譲渡されたのが一九〇九年であることが認められるから、本件原稿の前記述は正当であつて、むしろ、文部大臣の指摘が誤りであると認められる。したがつて、右検定意見は不当である。

(整理番号216)―原稿一九六頁さし絵説明

(一) 本件原稿の「はなばなしい勝利のかげには、こうしたいたましい犠牲(ぎせい)者があつた。松井昇(のぼる)の作品(皇室所蔵)」との記述に対し、文部大臣は、右記述は「日清戦争の戦死軍人遺族」と題するさし絵に付された説明文であるが、このさし絵を見ると、夫人がきりつとしていて峻厳な感じを与えており、むしろ軍人の家庭の覚悟を示していると思われるさし絵であるのに、この説明文はこのようなことと違つたことを説明しているものであつて、さし絵にそぐわないのであり、検定基準に照らし、組織・配列・分量の点で不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

本件原稿の前記述は、さし絵として掲げた松井昇の作品「日清戦争の戦死軍人の遺族」と題する絵の説明であるが、被告は「このさし絵を見ると夫人がきりつとしていて、峻厳な感じを与えており、むしろ軍人の家庭の覚悟を示していると思われる」と主張し、これにそう証人渡辺実の証言もある。しかしながら、戦死軍人の遺族の家庭はそのこと自体において十分痛ましいものであり、まして、右絵は遺品とおぼしきものを前にして夫人を中心に左右に少年、少女が一人ずつ坐し姉らしい少女は袖で顔を蔽つている姿を描写したものであるから、本件原稿が日清戦争に関する記述箇所においてこれをさし絵として掲げ「はなばなしい勝利のかげにはこうしたいたましい犠牲者があつた。」という説明文を付したとしても、決して不適切であるとか、さし絵にそぐわないということはない。かりに被告主張のように右絵中の夫人の表情から「きりつとしていて峻厳な感じ」を受けたとしても、また、そのことから「軍人の家庭の覚悟を示している」と考えられるとしても、そのことと原告の説明文とはなんら矛盾するものではなく、この絵がいたましい犠牲の絵であることに変りがあるであろうか。

したがつて、かかる場合、当裁判所は既述(第三の四の2、3)のごとく、原稿著作者の記述に従うのが、出版・表現の自由を尊重し、憲法の保障する表現の自由と教科書検定制度とを調整せしめるゆえんではないかと思料する。してみれば、文部大臣が右記述に対し検定基準に照らし組織・配列・分量が不適切であるとした前記検定意見は不当であるといわなければならない。

(整理番号226)―原稿二〇三頁図表

(一) 本件原稿の「鉄道の発展(「鉄道要覧」による)」の図表に対し、文部大臣は、同図によれば、一九一七年(大正六年)以後は、私有鉄道がなくなつているように受けとれるが、事実はそうではないので、この部分の記載は誤りであり、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉によると、わが国の私有鉄道は一九一七年(大正六年)以後も建設、経営されていることが明認されるところ、前示乙第一一号証による、本件原稿に掲げられた「鉄道の発展」の図表には私有鉄道は一九一七年(大正六年)に消滅したもののように記載されている。原告は、別紙(一三)において、被告の主張は実際の統計を知らない誤つたものであるとし、その理由として、鉄道国有化の原則に基づいて、国有化の対象となりえない私有鉄道等は一括して軌道ないし地方鉄道の項目に追い込い込んだ結果、公式の統計資料が原稿のようになつているのであるから、図表に誤りはないと主張するが、それならばその説明の要旨を原稿にも補足しなければ教科書としては消極的に不正確のそしりを免れないと考える。したがつて、右検定意見は相当である。

(整理番号227)―原稿二〇五頁五ないし八行

(一) 本件原稿の「地主と小作人の関係が近代化されず、現物小作料が高額であり、零細な土地を耕作する貧農が多数を占めている事情が、農村に新式の機械を使用する余裕を与えなかつたのである。①」との記述に対し、文部大臣は、右記述は「寄生地主制の発展」の項に述べられているが、農村で新式の機械が採用されなかつた事情としては、右記述にあげられたもののほかに、当わが国においては農村人口が多く、豊富な労働力に頼ることができたこと、稲作を中心とし、地形が複雑であるなどのわが国における農業の特殊な事情に適合した機械がなかつたことなどの要因も考えられ、前記述では検定基準に照らし正確性を欠くとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたものと推認することができる。

証人渡辺実の証言によると、右記述は、当時の農村における機械化が遅れた理由として、貧農が多く小作料が高く、農村に新式機械を使用する余裕がなかつたことだけが原因であるとするようにとれるが、その主な要因としてはそれだけではなく、農村の労働人口が豊富であつたこと、稲作中心で複雑な地形の上に発達した日本の特殊な耕作法などが独自の農具を必要とし、しかもその製作が技術的にむずかしく、また、外国式の大規模農機の導入をも困難ならしめた事情にあつたことなども考慮されなければならないこと、例えば、日支事変勃発後農村の労働力が不足するに伴い耕耘機などの農業機械が急速に普及したことに徴しても右事実は明らかであること(小倉武一編「近代における日本農業の発展」三八三頁、農業発達史調査会編「明治以後における農業技術の発達」一二三頁、同会編「日本農業発達史―明治以降における―巻二」参照)が認められ、他にこれを動かしうる証拠はない。

右認定事実によると、検定基準に照らし前記述は正確性を欠ものというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号228)―原稿二〇五頁一三ないし一九行

(一) 本件原稿の「耕作地主に代つて、五割内外という高率の小作料を徴収、村を政治的・経済的に支配する寄生地主が増加し、これが資本家とともに、政府・官僚・政党の支配をささえる社会的勢力となつたのである。

政府は帝国農会その他の農業団体の組織を奨励助長したが、それらはおおむね地主階級によつて動かされる団体であつたから、貧農の生活向上にはあまり役立たなかつた。」との記述に対し文部大臣は、当時の地主制度が果した社会的機能や役割にはいくつかの面があると考えられるが、右記述はそれを特定の一面的な角度からのみ取り上げているため、当時の地主制度について生徒に総合的な理解をさせる上で適切でなく、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言によると、前記述は当時の地主制度が果した社会的役割について一面的な角度からのみ捉えているもので、すなわち、地主の蓄積により新しい農法の導入、耕地整理、風水害・火災対策、社寺・学校等の建設、道路の改修あるいは組合の結成など地域社会の発展に寄与した責任と義務が存在したことを見逃しているし、他方、寄生地主は「資本家とともに、政府・官僚・政党の支配をささえる社会的勢力となつた」というのも表現があいまいであり、地主が官僚の支配をささえる社会的勢力となつたという両者の関連がこのままでは理解しにくいものとなつていることが認められ、他にこれを動かすに足りる証拠はない。

右認定事実によると、前記述は検定某準に照らし内容の選択に誤りがあるものというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号236)―原稿二一二頁二〇行

(一) 本件原稿の「新たに委任統治をゆだねられた旧ドイツ領南洋諸島を含めて、」との記述に対し、文部大臣は、「委任統治」を「ゆだねられた」とあつて、用語が重複しており、表現が適切でなく、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

「委任統治」(mandate)は国際法上の用語として使用されている名詞であり、他方「ゆだねられた」は動詞であつて、被告指摘のごとく「馬から落馬した」に類するような用語の重複には当らない。

この点につき、昭和三八年度の本件原稿では、文部大臣の右指摘を考慮してか「新たに委任統治権を獲得した旧ドイツ領南洋諸島を含めて」と修正されたが、むしろ、昭和三七年度原稿のように「新たに委任統治をゆだねられた……」の方がより適切な表現ではないかと思われる。

したがつて、これを用語の重複として検定基準に照らし表記・表現が不適切とした右検定意見は不当である。

(整理番号243)―原稿二二二頁八ないし一二行

(一) 本件原稿の「俸給生活者や賃金労働者の家庭でも、生活をささえる収入は夫の職業だけから得られ、妻はただ消費生活を管理するだけで、古代の農村女性や江戸時代の下層町人の主婦のような生産的役割を持つていなかつたから、ここでも妻の地位を向上させる余地は少なかつた。」との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、この箇所の記述においては、当時の俸給生活者の家庭における妻の役割を、たんに「ただ消費生活を管理するだけ」としているが、これは家庭における子女の教育や家政、夫婦間の精神的なつながりの意義などについてまつたく配慮を欠いているものであり、俸給生活者等の妻の役割について、生徒を消極的、かつ、一面的な理解に導き、ひいては家庭そのものの機能や意義について誤解させるおそれがあつて適切でない。さらに、当時の家庭の妻について「古代の農村女性や江戸時代の下層町人の主婦のような生産的役割を持つていなかつた」と断定して、妻の地位がもつぱら生産労働に従事するか否かによつてきまるものであるかのような誤解をも与えるおそれがあり、検定基準に照らし正確性に欠けるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたものと推認される。

証人村尾次郎の証言ならびに弁論の全趣旨を総合すると、俸給生活者等の家庭における妻の役割は、たんに消費生活を管理するだけではなく家庭における子女の教育、家政などのほか夫の相談相手や場合によつては激励者ともなる精神的な夫婦のつながりなど多面的であること、他方、本件原稿は大正時代の俸給生活者等の妻の地位を古代農村女性や江戸の下層町人の主婦の立場と比較しているが、ことさら時代の懸隔する例を引き出さなくとも、職業別における主婦の生産的立場、非生産的立場の比較は同時代のものでも十分可能であり、その意味で本件原稿の記述は方法論的に疑問があること、のみならず、夫婦間の相対的地位の相違は女性の生産関与の有無、程度がこれを決定する要素の一つにはなりうるけれども、その総てではなく、地域、階層、家庭の生活様式、教養、慣習的因子などに負うところも少なくないものがあり、これを一元的に論ずることは学問的にも教育的にも有益な方法ではないことが認められる。

右認定事実に照らすと、本件原稿の前記述は、俸給生活者等の妻の役割、地位について、そのみかたが一面的に過ぎるものというべく、したがつて、右検定意見は相当である。

(整理番号252)―原稿二三二頁五ないし一〇行

(一) 本件原稿の「住居については、官庁……などの公共生活では、西洋式の腰掛の様式となり、……耐震耐火建築物が建てられるようになつたが、一般民衆は依然として木造畳敷の住居の住活を続けた。和服・洋服の二重生活が生じた原因の一つがここにある。」との記述に対し、文部大臣は、次のような意見を付した。すなわち、公共建築物等に西洋式のものが取り入られても、国民の住居は木造畳敷のものが維持され、洋服が取り入れられても和服が維持されたのは、わが国が明治以降西洋文化を受け入れた際、衣食住の全般にわたつて実際上の便宜にかなうものは積極的に取り入れ、反面、わが国に従前から存在する文化のうち気候・風土、伝統等にかなう良さのあるものは依然として維持していくというわが国の西洋文化に対する独自の摂取態度の現れにほかならない。ところが、本件原稿の右記述は、かような点に対する配慮を怠り、たんに現象面の記述にとどまつているため、明治以降西洋文化を取り入れながら変化してきたわが国民の日常生活について生徒が適切な理解をうる上に支障となつている。これは検定基準に照らし内容の選択を誤つているものであるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

本件原稿の右記述は、「日常生活の変化」の項で依・食・住について述べられたもののうち、住に関する部分であるが、証人渡辺実の証言ならびに弁論の全趣旨によると、明治維新以降においてわが国民は西洋文化のうち実際上の便宣にかなうものは積極的にこれを取り入れたが、その反面、わが国に在来する文化でもその気候・風土・慣習などに合致するものは依然として維持したのであり、それはただ西洋文化に盲従するのではなく、和洋両者の長所を調和しながら独自の摂取態度で臨んだものであること、例えば、日本式の木造建築や和服の方が西洋建築や洋服よりも日本の気候・風土ないしは日本人の生活様式によりよく適応している面もあり、価格の点でもかえつて高価で豪勢なものもあること、本件原稿の前記述では右事情がまつたく考慮されていないのみならず、「一般民衆は依然として木造畳敷の住居の生活を続けた。和服・洋服の二重生活が生じた原因の一つがここにある。」と記述すると、生徒に「二重生活をやめて西洋式のものに一本化した生活をやるべきだというような印象」さえ与え、あるいは語感として一般民衆は西洋式の生活近代化に取り残され、相変らず木造畳敷住居に甘んじているかのような誤つた理解に導くおそれのあることが認められ、他にこれを動かしうる証拠はない。

右認定事実によると、前記述は明治維新以降におけるわが国民の西洋文化に対する摂取態度について、たんにその現象面を強調するにとどまり、右のような独自性についての配慮に欠ける点があり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとした前記検定意見は相当である。

(整理番号253)―原稿二三三頁五ないし一八行

(一) 本件原稿の記述は次のとおりである。

「近代文化と非近代文化の併存 この時期に日本文化の近代化が迅速に進んだことは、上に述べたとおりであるが、生産様式において近代的なものと前近代的なものとが平行して存在したのと同様に、文化の世界でも近代的なものと前近代的なものとの奇妙な共存の現象が見られた。

研究室の中では、高度の科学的業績が生み出されているかと思えば、世の中には非科学的な考え方が依然として根強く残つており、易者(えきしや)が運勢判断で人を集めたり、医学によらず、おまじないやお祈りで病気をなおそうとする人々が数えきれないほどおおぜいいるという状態であつた。

非常な速さで進められた近代化の企ては、表面一応その目的を達したように見えたけれど、社会の大多数を占める農民や中・小企業労働者の生活が近代化されなかつたために、一部の少数の人々が進んだ近代文化を享受することができるようになつても、すべての国民がその恩恵に浴することはむつかしかつたのである。」

これに対し、文部大臣は、次のような意見を付した。すなわち、右記述は「3近代文化の成長」の節の最後の項にあたるもので、明治から昭和初期にかけてのわが国の文化の発達をまとめた部分である。しかるに、この記述では、研究室内の「科学的業績」と易者の「運勢判断」などとの対比を例に取り上げて「文化の世界でも近代的なものと前近代的なものとの奇妙な共存の現象が見られた。」としているが、これは急激に文化が発展する際格別奇異な事象とは認められない新旧文化の併存する現象を、ことさら「奇妙な」ものとして取り立てて記述している。この当時教育や文化の国民大衆への普及、例えば義務教育や音楽の普及など、国民一般も漸時近代文化に浴し生活が向上しつつあつたのであり、右記述は全体として明治から昭和初期にかけてわが国の文化が近代化する経緯について生徒を適切でない理解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択が不適切であるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言によると、本件原稿の右記述は「近代文化と非近代文化の併存」という項で述べられたものであるが、一般に近代化の進行過程においては、近代文化と非近代文化が併存することは世界いずれの国にも珍しい現象ではなく、わが国の明治・大正期における特有の事象ではないこと、また「社会の大多数を占める農民や中・小企業労働者の生活が近代化されなかつた」という記述は、国民大衆も義務教育の普及や大衆文化の成立など漸次近代化しつつあつた事実を無視するものであることが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、本件原稿の前記述は、近代文化の成長を生徒に正当に理解させる面において適切ではないというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号262)―原稿二四一頁九ないし一三行

(一) 本件原稿の「一九四一年(昭和一六年)四月、南進態勢を強化するため、日本はソビエト連邦との間に、日ソ中立条約を結んだが、六月ドイツ軍がソビエト連邦に侵入を開始すると、『関東軍特別大演習』の名目で大軍をソ連国境の近くに集中し、情勢が有利となつたときにはシベリヤに侵入できるよう準備を進めた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は、例えば、ソ連側が自国の利益のために日ソ中立条約の締結を希望し、これを提案したという事実などには触れておらず、関東軍特別大演習についての記事と相まつて、同条約がわが国のみの利益や都合によつて締結されたものであるかのように受け取られ、当時の日ソ関係について一方的な誤つた理解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 日ソ中立条約は一九四一年四月モスクワにおいて日本・ソビエト両国間に調印されたものであるが、その内容は、第一条 両締約国は平和および友好関係を維持し、かつ、相互に領土保全を尊重すること、第二条 締約国の一方が第三国より軍事行動の対象とされた場合、他の一方は全紛争の期間中立を守ること、第三条 有効期間は五年とし、廃棄通告なきときは、さらに五年間自動的に延長されることなどであつた。そして、右締結に至る経過は下記のとおりであつた。すなわち、満州事変(昭和六年)以後、ソ連側より繰返し申入れがなされていた日ソ不可侵条約の締結を、日本はその都度拒絶してきたが、蜿蜿五、〇〇〇キロに及ぶ満・蒙とソ連国境付近では国境紛争が頻発し、なかんずく昭和一二年(一九三七年)七月乾盆子島事件、同一三年(一九三八年)七月張鼓峯事件と続き、さらには同一四年(一九三九年)ノモンハン事件のごとく戦車や飛行機による日ソ両軍の大規模な正面衝突事件にまで発展したものまで起り、日ソ関係は極度に悪化した。日本は昭和一一年(一九三六年)日独防共協定を結び対ソ関係に備えてはいたが、昭和一四年八月独ソ不可侵条約が締結され、同年九月第二次ヨーロッパ戦争が勃発するに及んで世界情勢は急変した。この新情勢に対応して第二次近衛内閣は、「時局処理要綱」を決定し、ソ連との間に国境不可侵協定を締結する方針を打出し、昭和一五年(一九四〇年)一〇月三〇日建川駐ソ大使をして日ソ不可侵条約を提案させたが、ソ連側は北樺太における日本の石油・石炭利権の解消問題が先決であるとして右日本側申入れに応じなかつた。ソ連側は逆に右利権解消と引換えに中立条約の締結を提案してきたが、昭和一六年(一九四一年)四月外相松岡洋右がモスクワを訪れ、モロトフ委員と不可侵条約の締結につき交渉した際、モロトフは右ソ連側の主張を繰返すのみで難航していたところ、最終段階になつて急遽スターリン首相の裁断により北樺太利権問題は数か月内に解決に努力することで両国の合意が成立し、ソ連側の提案による中立条約案を骨子とする形で同月一三日調印の運びとなつた。

(2) 前記日ソ中立条約成立後僅か二か月余りである一九四一年六月二二日独ソ戦が開始され、同年七月二日御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。その主眼は、膠着状態の日支事変を早期解決するのが当面の急務であり、同時に日米関係の急迫に備えてもつぱら南方に圧力をかけることを内容とし、北方問題は参謀本部等の一部急進派の主張にこたえて付随的なものとして取り扱われた。そこで「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ク之ニ介入スルコトナク、密カニ対ソ武力的準備ヲ整へ、自主的ニ対処ス、独ソ戦争の推移帝国ノタメ極メテ有利ニ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ、北辺ノ安定ヲ確保ス」と定められていた。これに基づき同年七月一一日関東軍特別大演習の動員が開始され、関東軍の兵力は兵員約七〇万、戦車四五〇台、飛行機約六〇〇機に増強されたが、ソ連側兵力は兵員約七五万、戦車約二、三〇〇台、飛行機約一、七〇〇機と推定され、装備の点で関東軍のそれを遙かに上まわつていた。

(3) ところで、右「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要領」にいわゆる「独ソ戦争の推移帝国ノタメ極メテ有利ニ進展セバ……」の意味につき、アメリカの歴史学者で外交史研究家ポール・W・シュレーダーは、「ロシヤ社会の崩壊が非常に眼前に迫つたとき」を指すものとしており、極東国際軍事裁判所のインド代表判事R・パール博士も、関東軍特別大演習につき、「われわれはこの点に関して日本はロシヤが欧州戦争に巻返まれていた好機をも利用しなかつたことを再び想起しうるであろう。(中略)証拠は日本がソ連邦と衝突することを避けようと念じていることを十分に示している。日本は常にかような衝突を恐れていたようである。ドイツの要請さえも日本に対し行動を起させることはできなかつた。本官の意見では、本件における諸証拠の累積的効果は、たんに日本がロシヤの国力、準備、および満州への進出の可能性に対して感じた脅威とロシヤが満州に進出する場合に対する日本のとつた事前の警戒および細心の準備を示すことにすぎない。」と述べている。

以上の事実が認められ、甲第三一三号証中右認定に反する部分は前掲各証拠に照らして採用できないし、他にこれを動かすに足りる証拠はない。右認定事実に照らすと、日ソ中立条約は最終的にはむしろソ連の提案に応じて日ソ両国間に締結されたものと認められ、また、関東軍特別大演習は準備的増員であつて、直接作戦行動を目的としたものではないことが認められる。かりにこれがそうではないとしても、現実作戦行動に移行した事実のない以上、日ソ中立条約の違背とはならないこと明らかである。のみならず、一九四五年八月ソ連側が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に進撃した事実を取り上げることなく、関東軍特別大演習といういわば予備段階のものを特筆して教科書に記載することは、記述事項のバランスからいつて公正な取扱いとはいえない。

以上の次第で、本件原稿の前記述は当時の日ソ関係について生徒に一方的に誤つた理解を与えるおそれがあるので、右検定意見は相当というべきである。

(整理番号264)―原稿二四四頁一一ないし一三行

(一) 本件原稿の「戦争は『聖戦』として美化され、日本軍の敗北や戦場での残虐行為はすべて隠蔽(いんぺい)されたため、大部分の国民は、真相を知ることもできず、無謀な戦争に熱心に協力するほかない状態に置かれた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は、例えば「美化され」とか「日本軍の残虐行為」あるいは「無謀な戦争」などというように、全体として第二次世界大戦におけるわが国の立場や行為を一方的に批判するものであつて、戦争の禍中にあつたわが国の立場や行為を生徒に理解させるに不適切であり、検定基準に照らし内容の選択を誤つているとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

被告は、本件原稿の右記述が「聖戦として美化され」、「戦場での残虐行為」とか「無謀な戦争」として、第二次大戦におけるわが国の立場を一方的に批判するのは、この大戦が最近の事実であつていまだ歴史的評価が定まつていない段階であるから、教科書の記述としては内容的に適切でないと主張するけれども、第二次大戦中戦争が聖戦として美化されたこと、戦場で残虐行為が行なわれたことも残念ながら事実であり、また、右戦争が相手国との比較において国力・軍事力等において「無謀な戦争」に類するものであつたことも今日ではわれわれの常識となつている。

したがつて、本件原稿の右記述には、被告指摘のように内容の選択を誤つているとすべきものは認められないので、前記検定意見は不当である。

(整理番号276)―原稿二五三頁一〇ないし一一行

(一) 本件原稿の「戦争中にもかかわらず積み重ねられた理論物理学の業績が海外の学界からも高く評価され」との記述に対し、文部大臣は、「戦争中にもかかわらず…」という部分は、あたかも戦争中あらゆる科学の発展が阻害されたかのように誤解されやすく、教科書の表現として適切を欠き、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

〈証拠〉を総合すると、右原稿記述によるとあたかも戦争中はあらゆる科学の発展が阻害されたかのような誤つた印象を与えること、しかしながら、実際には科学は再び実学として「動員制」に組み入れられ、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎、菊地正士、武谷三男、渡辺慧、坂田昌一ら理論・実験物理学の分野に多くの俊英が輩出し、ある種の黄金時代をつくり、また、戦時中は相当の研究費が大学理工系学部や付設研究所に与えられ、理工系の学生は学徒動員も猶予される優遇処置が続いたこと、かような現象は世界的にみられ、諸外国でも核兵器、電波兵器などの開発が進んだことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、前記述の「戦争中にもかかわらず」という表現は不適切であるというべく、右検定意見は相当である。

(整理番号278)―原稿二五五頁注①

(一) 本件原稿の「このころ、下山(したやま)国鉄総裁の変死、福島県松川(まつかわ)の列車転覆などの怪事件が次々と発生し、それらがみな共産主義者のしわざであるとする宣伝が行なわれた。そのために大量解雇反対の動きがくじけ、労働運動の後退は決定的となつた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は本文の「また、デフレーション政策の一環として、一九四九年(昭和二四年)には国有鉄道従業員の大量解雇をはじめとして、企業整備・行政整理が行なわれ、失業者が増加し、労働運動も後退していつた①。」という記述の脚注として述べられたものである。しかしながら、これらの事件と労働運動との関連については、松川事件の判決が確定している今日といえども結論を下すことはきわめて困難なことであり、この点に留意する必要があるにもかかわらず、この脚注はそのような配慮に欠け、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言ならびに弁論の全趣旨を総合すると、当時の労働運動が後退した原因として、下山、三鷹、松川の三事件が影響を与えていることは否定できないが、それにもまして、米国ないしは連合軍司令部の共産党政策や対日政策の一大転換により、デフレ政策、人員整理の一般化、法制面でのマ書簡や公務員法の改正、公共企業体労働関係法の制定ならびに労働組合法の改正など、昭和二三年六月から同二四年六月にわたり政治的、社会的諸情勢が強く影響していることが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、右記述は、前記本文に対する脚注としては不適切であり、右検定意見は相当というべきである。

(整理番号281)―原稿二五八頁一二ないし一三行

(一) 本件原稿の「……安全保障条約によつて、アメリカ軍は日本に駐留を続け、全国各地に多くの基地を保有した③。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は「サンフランシスコ条約の成立」の項に述べられているものであるが、日米安全保障条約第六条によると「施設及び区域」(facility and area)という用語となつており、「基地」(base)という用語は使われていないし、「基地」という用語は、その地城内において治外法権的な地位を認める一九四一年の米英間の基地協定、一九四七年の米比基地協定等にいう基地を意味するものと認識されるおそれがあるところ、日米安全保障条約の「施設及び区域」にはこのような治外法権的な地位は認めていないから、前記述のように「基地」の語を用いると、同条約によつて使用することをわが国が認めている「施設及び区域」について、生徒に誤解をさせるおそれがあつて不正確であり、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはA意見を付されたことが認められる。

昭和二七年(一九五二年)四月調印の日米安全保障条約第三条に基づく行政協定第二条には「基地」(base)という言葉は用いられず、「施設及び区域」(facility and area)という用語となつている(もつとも、右条約第二条には「基地」という用語があるが、これは日本が第三国に基地を許す場合には事前に米国の同意を要するというものであつて、日米間のものとは直接関係がない。)。また、昭和三五年(一九六〇年)の「相互協力及び安全保障条約」第六条ならびに同条に基づく地位協定第二条でも右「施設及び区域」という用語を踏襲している。そして証人渡辺実は、一般に「基地」という場合その範囲内では治外法権の認められるものを指称するのが通例で、例えば、被告主張の米英基地協定、米比基地協定等であり、一九五二年の日米安全保障条約によるものはその意味において「基地」ではなく「施設及び区域」である旨証言をしている。

しかしながら、わが国においては右「施設及び区域」を一般に「基地」と呼んでおり、成立に争いのない甲第二三五号証(「回想一〇年」)によれば、元外務大臣岡崎勝男は行政協定締結当時を回想して、「基地」という言葉について次のとおり述べている。すなわち、「あの『基地』という文字は、行政協定では、どこにも使われていない。私たちは、基地というと、いかにも駐留軍が専管する治外法権的な区域を連想させられて、面白くないと考えた。そこで協定では、すべて『施設及び区域』という文字を使うことを、交渉の際に主張した。(中略)先方では、『ベース』という文字はそんなにむずかしい意味を含んでいないし、どこでも普通に使つている言葉だから、いいじやないかと言う。それはその通りなのだが、日本としては占領という特殊の事態があるので、占領軍の使つていた基地という字を、そのまま続けて用いるのは困るというわけで、やつと先方を承知させたという経験がある。ところが世の中は面白いもので、こんなに無理にこじつけて作つた長たらしい文字は誰も使いたがらない。折角骨折つて入れた『施設及び区域』も結局は無視されて、新聞もラジオも、相変らず『基地』で押し通しているのは周知の通りである。最初のほどは私も、国会で質問などがあると、『これは基地ではありません。施設、区域であります』などと、いちいち訂正していたが、とても切りがないので、その後は諦めて何も言わないことにした。」と。

右のとおりであるとするならば、日米安全保障条約上の文言はともかく、「基地」という用語が被告主張のような治外法権と結びつけられた特殊の意味しか持たないものではないというべきである。ことに、教科書においては「施設及び区域」というより、広く一般的に使用されている「基地」という言葉の方がむしろ生徒に理解され易いものと思料される。したがつて、本件原稿において「基地」という用語を使用したことは、右のような教育的配慮からしてかえつて適切であるというべく、本件検定意見は不当といわざるをえない。

(整理番号283)―原稿二五九頁写真

(一) 本件原稿に「再軍備に反対する人々」と題する写真が掲げられているが、文部大臣はこれに対し、この写真はいわゆる「ジクザグ行進」の写真のように見えるが、このような行進については、これまで道路交通法(昭和三五年法律第一〇五号)の第一〇条、第一一条、第七七条の規定や都道府県のいわゆる公安条例に違反する例が少なからずあつたという事実にかんがみ、このような違法のおそれのある行進の写真をそのまま教科書に掲げることは、生徒にかような行為が当然に合法的に認められるものと誤解させるおそれがあり、教育上好ましくない影響を与え、適切ではなく、検定基準に照らし内容の選択を誤つているとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

原告は、右写真は遅くとも昭和三〇年前後に撮影されたものと推認されるところ、道路交通法の公布施行は昭和三五年であるから、右写真成立当時には同法は存在しなかつたことが明らかであり、本件検定意見は不当であると主張する。しかしながら、右写真を見ると、道路中央の白線を横切つてジグザグ行進をするデモ隊の様子を撮影したものであることが明瞭に看取しうるのであり、それが道路交通法施行後であれば同法第一〇条、第一一条に違反するものであると認められる。

そして、右写真同様のデモは本件検定当時においても行なわれていたことは公知の事実であるから、同写真がたとえ道路交通法施行前に撮影されたものであるとしても、生徒が検定当時の写真であると誤認する可能性がないわけではないのみならず、そもそも生徒に右のような撮影時期と法令施行の前後を考慮に入れることを期待することは無理なことであると考えられる。

してみると、違法のおそれのあるジグザグ行進の写真をそのまま教科書に掲げることは、生徒にこのような行為が合法的に肯認されるものと誤解させ、教育上好ましくない影響を与えるものと思料されるから、これを検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとした右検定意見は相当である。

(整理番号286)―原稿二六〇頁一七ないし二〇行

(一) 本件原稿の「三たび核兵器の洗礼を受けさせられた日本人の間から……」との記述に対し、文部大臣は、「核兵器の洗礼を受けさせられた」という表現は、教科書の記述としては通俗的に過ぎ、検定基準に照らし、表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

被告は「核兵器の洗礼を受けさせられた」というのは教科書の記述としては通俗的に過ぎると主張するけれども、「洗礼」とは本来キリスト教において信者となるための儀式を指称し、本件記述のような比喩的な用法であつても教科書の用語としてとくに不適切であるとしなければならないほど通俗に過ぎるとも認められない。むしろ、凄惨な核兵器の被爆という現実を抽象化し、いくらかでも印象を和らげる語感さえ持つといえるのである。したがつて、かような程度の用語の選択は、いかに教科書であつても著作者の表現の自由に属するというべく、検定当局もこれを尊重し、これに修正意見を付し、あるいは不合格理由とすることはさし控えるのが妥当であると思料する。よつて、右検定意見は不当というべきである。

(整理番号289)―原稿二六三頁七ないし一二行

(一) 本件原稿の「かつて一部の狭い思想の人たちが考えたように、西洋文化は物質的であり、東洋文化は精神的であつて西洋文化よりいつそうすぐれているなどとはとうてい信じられない。欧米に源を発した近代文化は単に西洋人だけのものではなく、今では世界の文化であり、だれもこれを無視するわけにはいかない。前近代的な東洋の古典文化は、この近代文化に代わる力を持つていない」。との記述に対し、文部大臣は次のような意見を付した。すなわち、右記述は「世界史と日本史」と題する巻末に特設されている部分の一部であるが、ここでは世界史との関連において日本の歴史を特徴づけ、日本の文化の特性を理解させるとともに、巻末のまとめとして世界における日本の今後の使命、課題について考察させようとするものであると認められる。しかるに、右の記述は東洋文化ひいては日本文化の今日における意義や価値について生徒をいたずらに一方的、消極的な理解に導くおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるというのである。

以上の事実は当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人川井修治の証言によると、東洋と西洋の各古典文化を対比させるのなら格別、東洋の古典文化と西洋の近代文化とを対比させることはあまり意味がないこと、東洋文化と西洋文化はその独自性を維持しつつ相互補完的な関係をもつものとみるのが妥当であり、あえてその間に優劣をつけるまでもないことが認められる。

右認定事実に照らすと、本件原稿の前記述は巻末の「世界史と日本史」の特設部分の記述としては内容的に妥当ではなく、この点を指摘した右検定意見は相当である。

(整理番号300)―原稿二八三頁一一ないし一二行およびその脚注

(一) 本件原稿の「昭和一八年(一九四三年)四月三〇日『世の中は星①に碇(いかり)②に闇に顔、馬鹿(ばか)者のみが行列に立つ』という歌が流行している。」脚注「①陸軍をさす。②海軍をさす。」との記述に対し、文部大臣は、史料二二「清沢洌(きよざわきよし)日記」のうちのこの歌は、戦争中の世相の一面を過度に取り上げたものであり、また、生徒がまじめな一般国民を指して「馬鹿(ばか)者」といつているように受け取り、そのまじめな生活意欲が失われるおそれがあつて、このまま教科書に掲げることは教育的配慮に欠けるものがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(二) そこで、右検定意見の当否について考えるに、別紙区分表記載のごとく、前記指摘箇所にはB意見を付されたことが認められる。

証人渡辺実の証言によると、清沢洌日記の右歌は、戦争中の世相の一面を過度に取り上げ、一般国民を馬鹿者扱いにし、その純正な態度を無視しているような印象を与えることが認められ、他にこれに反する証拠はない。

右認定事実に照らすと、教科書にかような記述をそのまま載せるときは生徒の社会に対する正常な見方を育成する上で支障となるおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとした右検定意見は相当である。

2  昭和三八年度検定

(一) 〈証拠〉によると、本件原稿の整理番号1ないし14の記述(ただし713は写真)に対し、文部大臣が検定基準に照らし被告主張のごとく整理番号1は内容の選択に誤りがある、同2は正確性を欠く、同3ないし5は内容の選択に誤りがある、同6は組織・配列・分量の不適切、同7は造本の欠陥ならびに内容の選択に誤りがある、同910は表記・表現の不適切、同11は内容の選択に誤りがある、同12は正確性に欠く、同1314は内容の選択に誤りがある旨の各修正意見を付し、これに基づき条件指示を行なつたことが認められ、そのうち同41012にはA意見、その他にはすべてB意見がそれぞれ付されたことについては当事者間に争いがない。

(二) 〈証拠〉を総合すると、本件内閲本の整理番号重1ないし20の記述(ただし1519は写真)に対し、文部大臣が検定基準に照らし被告主張のごとく整理番号重1は内容の選択に誤りがある、同重2は組織・配列・分量の不適切、同重34は内容の選択に誤りがある、同重5は正確性を欠く、同重6は内容の選択に誤りがある、同重7は表記・表現の不適切、同重8は組織・配列・分量の不適切、同重9は内容の選択に誤りがある、同重10は正確性を欠く、同重11は組織・配列・分量の不適切、同重12は内容の選択に誤りがある、同重13は正確性を欠く、同重1415は表記・表現の不適切、同重16は内容の選択に誤りがある、同重17は表記・表現の不適切、同重1819は組織・配列・分量の不適切、同重20は内容の選択に誤りがある旨の各修正意見を付したこと、右のうち整理番号重6710ないし16には各B意見が付されたことが認められ、そして、同重1にはA意見、同重2ないし58917ないし20にはB意見がそれぞれ付されたことについては当事者間に争いがない(整理番号重16につき被告の別紙(二四)でA意見を付したとなつているが、別紙(一七)ではB意見となつており、内閲本に対するものであるから右にA意見とあるのは誤記と認められる。)。

(三) 前記検定意見の当否について、当裁判所の判断のうち、次のものはこれに照応する昭和三七年度原稿に関する前述の当裁判所の判断を引用するほか、若干の補足を付加することとする。

昭和三八年度

原稿

同内閲本

昭和三七年度

原稿

整理番号  1

整理番号重 4

整理番号  12

2

5

50

3

8

207

4

1

205

5

9

209

6

2

216

8

3

264

10

276

11

18

278

12

281

13

283

14

20

300

6

138

10

227

11

228

14

11

16

262

(整理番号1および重4)―原稿、内閲本とも一、九、六

三  一七四頁のさし絵

(1)  〈証拠〉によると、本件昭和三八年度原稿の第一ないし第四編の各扉のさし絵に付された「歴史をささえる人々」という見出しとその説明文は、昭和三七年度原稿のそれと同一であることが認められるところ、同年度原稿に対する文部大臣の検定意見(内容の選択の誤りとしてB意見)ならびに当裁判所の判断は同年度整理番号12の項に記載のとおりである。そして、文部大臣は昭和三八年度原稿の右記述に対しても、昭和三七年度原稿と同旨の検定意見を付しB意見の修正指示を行なつたことは、前記のとおりであるが、前示乙第一三号証によると、原告は同年度の内閲本において第一ないし第四編の各扉のさし絵に付された「歴史をささえる人々」という見出しと第二編の説明文はそのままであつたが、第一編では右見出しと説明文の間に新たに「歴史のはなやかな舞台の背後には、縁の下の力持ちとなつて、これをささえる無数の人々がいる。」という文章を追加し、第三編の説明文を「封建社会をささえるのは農民の生産労働であつた。農民が骨をおつて作つた米を、この図のように、年貢(ねんぐ)として納めている光景。《円山応挙の「難福図巻」の一部》」というように修正し、第四編の説明文を「基幹産業の一つに数えられる製鋼工場で働く人の姿。」と改めたことが認められ、これに対し、文部大臣はさらに内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  内閲本の右記述も前示各証拠(昭和三七年度原稿整理番号12の項)によれば、「歴史をささえる人々」という見出しがどのようなことを意味するのか依然としてあいまいであり、この見出しと説明文をあわせてみた場合、先の白表紙本に対する検定において内容選択の誤りとして指摘された欠陥がなお改められたものとは認められないのみならず、第一編の説明文中新たに追加された部分は、これに続く「繩文(じようもん)式土器につけられた人面。呪術(じゆじゆつ)のためのものであろうが、原始社会人の自画像と見ることもできるのではあるまいか。《山梨県塩山市出土》」という説明と内容的な関連性に乏しく、検定基準の「組織・配列・分量」の不適切な場合に該当するものと認められ、他に同認定に反する証拠はない。

(3)  右認定事実によると、昭和三八年度原稿ならびにその内閲本の前記述には、昭和三七年度原稿(整理番号12)について判示したと同様な欠陥があり、これに対する文部大臣の右検定意見は相当であつて、これにつき原告主張の違法はない。

(整理番号2および重5)―原稿三三頁注①

(1)  昭和三七年度原稿では「古事記」および「日本書紀」についての脚注として「(上略)『神代』の物語はもちろんのこと、神武(じんむ)天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために作り出した物語である。」と記述され、これに対し文部大臣が検定基準に照らし内容選択に誤りがあるとしてA意見を付したことならびにその当否に関する当裁判所の判断は同年度整理番号50の項に記載のとおりである。

そして、前示乙第一二、第一三号証によると、昭和三八年度原稿ならびにその内閲本では、右記述のうち「皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが(下略)、」(傍点は当裁判所)と変更したほか前年度原稿と同一であることが認められ、これに対し文部大臣が「すべて‥‥皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語」であるとするのは、断定に過ぎ検定基準に照らし正確性に欠けるものとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  前掲各証拠(昭和三七年度原稿整理番号50の項)によれば、昭和三八年度原稿およびその内閲本の前記述は、やはりなお断定に過ぎ不正確であると認められ、右検定意見は相当であつて、これにつき原告主張の違法はない。

(整理番号3および重8)―原稿一九六頁写真説明

(1)  本件昭和三八年度原稿の記述が、前年度原稿と同じく」官報(ただし、昭和三七年度原稿の官法は官報の誤記)号外の表紙、金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している。」とするものであつたこと、昭和三八年度の内閲本において原告はこれを「金色の菊の紋章は、天皇主権時代に公の文書や官庁などに、主権者の権威を示す目的でしばしば用いられたものである。」と修正したことは当事者間に争いがなく、昭和三七年度原稿に対し文部大臣が検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことならびにその当否に関する当裁判所の判断は同年度整理番号207の項に記載のとおりである。

そして、文部大臣は、昭和三八年度原稿の右記述につき、これでは大日本帝国憲法がことさらに威厳をもつて国民に臨んだ憲法であるかのような一面的な理解に導き、同憲法のもつ近代的な側面を見失わせるおそれがあるので、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとし、また、内閲本についても依然として右意見の趣旨が達成されているとは認められないのみならず、内閲本の前記述は「憲法発布」の項にある説明文でありながら菊の紋章の用途について説明するにとどまり、官報号外に掲載された大日本帝国憲法の写真であるさし絵の説明としては内容的に関連性がなく、検定基準に照らし「組織・配列・分量」の不適切な場合に当るとして、いずれもB意見を付したこと前記のとおりである。

(2)  右検定意見の当否に対する当裁判所の判断は、前記(昭和三七年度原稿整理番号207の項)と同旨であり、文部大臣の昭和三八年度原稿ならびにその内閲本の前記述に対する各検定意見はいずれも不当である。

(整理番号4および重1)―原稿一九七頁一ないし二行

(1)  昭和三七年度原稿では「これが大日本帝国憲法であるが、憲法は公布の日まで秘密にされ、天皇が国民に与える欽定(きんてい)憲法として発布されたのである。」と記述され、これに対し文部大臣が検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしてA意見を付したことならびにその当否に関する当裁判所の判断は同年度整理番号205の項に記載のとおりである。そして、昭和三八年度原稿およびその内閲本では、前年度原稿の右記述に脚注として「①明治憲法はアジアでは最初の憲法であつた。」という言葉が加えられたことは当事者間に争いがなく、これに対し文部大臣が昭和三七年度原稿の場合と同旨の理由により検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしていずれもA意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  右検定意見の当否に対する当裁判所の判断は前記(昭和三七年度原稿整理番号205の項)と同旨であり、昭和三八年度原稿およびその内閲本では「明治憲法はアジアでは最初の憲法であつた。」という脚注が設けられたが、これによつても前記の欠陥は補正されていないものと認められ、文部大臣の前記検定意見は相当であつて、これにつき原告主張の違法はない。

(整理番号5および重9)―原稿一九八頁一六ないし二二行

(1)  昭和三七年度原稿(整理番号209)では「(上略)そのころから学校では、御真影(ごしんえい)への最敬礼や教育勅語の捧読(ほうどく)を行なつて、国民精神の統一をはかろうとした。」と記述され、同項の記述に対し、文部大臣は検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしてA意見を付したこと前記のとおりであるが、昭和三八年度原稿およびその内閲本では前記部分が「(上略)そのころから学校で御真影(ごしんえい)への最敬礼や教育勅語の捧読(ほうどく)が行なわれるようになり、幼少の時代から天皇を尊びあがめる習慣を養成することに力が注がれた。」と記述されていることは当事者間に争いがなく、これに対し文部大臣が前年度原稿と同旨の理由によりいずれも内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  右検定意見の当否に対する当裁判所の判断は前記(昭和三七年度原稿整理番号209の項)と同旨であり、文部大臣の前記検定意見は相当であつて、これにつき原告主張の違法はない。

(整理番号6および重2)―原稿二〇八頁さし絵説明

(1)  昭和三七年度原稿(整理番号216)では「はなばなしい勝利のかげには、こうしたいたましい犠牲(ぎせい)者があつた。松井昇(のぼる)の作品(皇室所蔵)」と記述され、これに対し文部大臣は検定基準に照らし「組織・配列・分量」の不適切な場合に当るとしてB意見を付したこと前記のとおりであるが、昭和三八年度原稿およびその内閲本では「勝利のかげにはこうした犠牲(ぎせい)者があつた。松井昇(のぼる)の作品(皇室蔵)」と記述されていることは当事者間に争いがなく、これに対し文部大臣はさらに前年度原稿同旨の理由によりいずれも「組織・配列・分量」が不適切であるとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  右はさし絵「日清戦争の戦死軍人の遺族」と題する松井昇の作品に対する説明部分であるが、昭和三七年度原稿整理番号216について判示したように、決してさし絵にそぐわない不適切なものではなく、まして、昭和三八年度原稿はたんに「勝利のかげには、こうした犠牲(ぎせい)者があつた。」とするのみであるからなおさらのことである。したがつて、文部大臣の前記検定意見は不当というべきである。

(整理番号8および重3)―原稿二五八頁二〇行ないし二五九頁一行

(1)  昭和三七年度原稿(整理番号264)では「戦争は『聖戦』として美化され、日本軍の敗北や戦場での残虐行為はすべて隠蔽(いんぺい)されたため、大部分の国民は、真相を知ることもできず、無謀な戦争に熱心に協力するよりほかない状態に置かれた。」と記述され、これに対し文部大臣は検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしてA意見を付したこと前記のとおりであるが、昭和三八年度原稿およびその内閲本では「あらゆる自由な文化活動は停止され、戦争を謳歌(おうか)する軍国調一色に塗りつぶされた。特に新聞・雑誌の検閲が強化され、戦況の報道も大本営発表を取り次ぐだけとなつたので、国民は戦争についての真相を十分に知ることができず、無謀な戦争に熱心に協力するよりほかない状態に置かれた。」と記述されていることは当事者間に争いがなく、これに対し文部大臣は、第二次大戦は最近の事実でありまだ歴史的評価は定まつていないので、「無謀な戦争」とするような断定的評価を避ける配慮が必要であるなど前年度原稿と同旨の理由によりいずれも内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  右検定意見の当否に対する当裁判所の判断は前記(昭和三七年度原稿整理番号264の項)と同旨であり、文部大臣の右検定意見は不当というべきである。

(整理番号重11)―原稿二一八頁六ないし一二行

(1)  本件昭和三七年度原稿(整理番号228)では「耕作地主に代つて、五割内外という高率の小作料を徴収し、村を政治的・経済的に支配する寄生地主が増加し、これが資本家とともに、政府・官僚・政党の支配をささえる社会的勢力となつたのである。政府は帝国農会その他の農業団体の組織を奨励助長したが、それらはおおむね地主階級によつて動かされる団体であつたから、貧農の生活向上にはあまり役立たなかつた。」と記述され、これに対し文部大臣は内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことは前記のとおりであるが、昭和三八年度原稿も右とほぼ同じ内容の記述であつたところ、これに対し文部大臣は前年度原稿と同旨の理由によりA意見を付したこと、そこで、原告はその内閲本においては前記述に続いて「もつとも、明治初年以来、地主が小学校を建てたり、郷土の公益に貢献した事実も一面ではあつた。」と追加記述したことは当事者間に争いがない。そして、文部大臣は内閲本の右記述に対してもなお内容の選択に誤りがあるとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(2)  内閲本の右記述も前示渡辺証言(昭和三七年度原稿整理番号228の項)によると、寄生地主が「資本家とともに、政府・官僚・政党の支配をささえる社会的勢力となつた」という記述は表現があいまいであり、地主が官僚の支配をささえる社会的勢力となつたという両者の関連を理解しにくいものとしていることが認められ、検定基準に照らし内閲本の右記述も依然として内容の選択が適切を欠くものというべく、文部大臣の前記検定意見は相当であつて、これにつき原告主張の違法はない。

(整理番号重16)―原稿二五六頁二ないし三行

昭和三七年度原稿(整理番号262)では、文部大臣は検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしてA意見を付したこと既述のとおりであるが、昭和三八年度の内閲本における「一九四一年(昭和一六年)四月、南進態勢を強化するため、日本はソビエト連邦との間に、日ソ中立条約を結んだ。①」との記述に対し、文部大臣は内容選択の誤りとしてB意見を付したことは前記のとおりである。

(四) そこで、その余について当裁判所の判断を以下に摘示する。

(整理番号7)―原稿二四九頁さし絵

(1)  本件原稿にさし絵として掲げられた写真「張作霖爆破事件」(新聞記事)に対し、文部大臣は右さし絵の写真は、印刷がやや不鮮明であり、写真の内容が明瞭ではない上、教科書に掲げるものとしては少し陰惨であるとして、検定基準に照らし造本に欠陥があり、かつ、内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、〈証拠〉によると、教科書に掲げるものとしては前記写真は不鮮明な上に陰惨な情景のもので不適切であることが認められ、他にこれに反する証拠はない。そして、右認定事実に照らすと、前記修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右意見に基づき条件指示を行なつたことには原告主張の違法はない。

(整理番号9)―原稿二六六頁脚注①

(1)  本件原稿の(脚注①)「新しい歴史教科書では、戦前の極端な国家主義の思想や非科学的要素を取り除くことにつとめ、神代の説話からでなく、石器時代から始まる日本の歴史を教えることとなつた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述中「極端な」というのであれば「戦前」というよりもむしろ「戦時中」という方が適切であり、右記述のままでは文章の表現が的確を欠き、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、被告は、極端な国家主義の思想が表われたのは満州事変以後であることを自認するところ(別紙(二四))、「戦前」「戦時中」の時期的区別は必ずしも明確であるとはいい難いが、弁論の全趣旨によると、通常「戦時中」といえば少なくとも日支事変開始(昭和一二年)以後を指し、それより以前はいわゆる「戦前」に含ましめるのが一般的であると認められ、他にこれに反する証拠はない。

そうすると、被告主張に従つても満州事変以後日支事変までの間に既に「極端な国家主義の思想」が表われていたことになり、本件原稿の「戦前の極端な国家主義の思想や非科学的要素‥‥」という記述は必ずしもその表現が適切を欠くものとはいい難く、文部大臣の右修正意見は不当といわなければならない。

(整理番号重7)―内閲本一八一頁二〇行ないし一八二頁一行

(1)  本件内閲本の「薩・長両藩をはじめ、雄藩出身の士族が新政府の実権を握り、士族が官界に大きな地歩を占めた。その結果、官吏はこれまでの武士に代わる新しい特権的身分となり、武士の横暴が官尊民卑(かんそんみんぴ)の慣習となつて新時代に持ちこされたのである。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は明治初期の「士族のゆくえ」という項に述べられているものであるが、このような記述は、「官尊民卑(かんそんみんぴ)の慣習」が「武士の横暴」に起因するような印象を与え、表現が適切でなく、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、成立に争いのない乙第一七六号証の三および証人渡辺実の証言によると、内閲本の「武士の横暴が官尊民卑(かんそんみんぴ)の慣習となつて新時代に持ちこされたのである。」との記述は、官尊民卑の慣習が武士の横暴に起因するというような奇異な印象を与え、表現が適切でないことが認められ、他にこれに反する証拠はない。そして、右認定事実によると、検定基準に照らし前記述は表記・表現が不適切であるとした右修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(整理番号重12)―内閲本二三七頁一六ないし一九行

(1)  本件内閲本の「政府は、教育勅語を教育の基本方針とした。これより前から学校教科書には検定の制度が採用されていたが、一九〇三年(明治三六年)には小学校の教科書は国定となつた。中学校でも、検定の教科書が用いられた。このように教育に対して国家の統制がつづけられた。」との記述に対し、文部大臣は、右記述は「学校教育の普及」の項に述べられているものであるが、当時の教育に対する国の関与について、たんに国家の統制という観点からのみ取り上げ、教育の普及、教育水準の向上のために尽した国の意図や方法についての歴史的な配慮を欠き、戦前の教科書制度がわが国の学校教育の内容における整備充実に寄与した役割について何ら配慮していないものであつて、当時の教育について正しい理解を妨げるおそれがあり、検定基準に照らし内容の選択に誤りがあるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、証人渡辺実の証言によると、前記述は国の教育に対する関与について教科書制度を例にとり、たんに国家の統制という観点からだけ取り上げ、国が教育の普及、その水準の向上に果した役割についての歴史的配慮を欠き、戦前の教科書がわが国の教育の充実整備に寄与した成果について生徒に誤解させるおそれのあるものであることが認められ、他にこれに反する証拠もない。そして、右認定事実によると、検定基準に照らし右記述は内容の選択に誤りがあるものというべく、右修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(整理番号重13)―内閲本二三八頁二四行ないし二三九頁一行

(1)  本件内閲本の「しかしながら、明治憲法のもとでは学問の自由が保障されておらず、人文科学に対しては強い政治的制約が加えられ、研究の妨げられることが少なくなく、学問上の著述のために災いにあつた学者も一、二にとどまらなかつた。」との記述に対し、文部大臣は、大日本帝国憲法第二九条には「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とあり、制約はあるにしても学問の自由と密接な関連のあるこれらの自由を認めているにもかかわらず、前記述はまつたく学問の自由が保障されていなかつたような誤つた認識を与えるおそれがあり、不正確であり、検定基準に照らし正確性に欠けるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、大日本帝国憲法第二九条には、国民に対し法律の範囲内においてという制限はあるが、言論・著作・印行・集会および結社の自由が保障されていたこと明らかであり、証人渡辺実の証言に照らしても、右保障は学問の自由と密接な関連を有するのに、前記述な大日本帝国憲法がまつたく学問の自由を保障していなかつたような誤つた認識を生徒に与えるおそれがあり、不正確であることが認められる。そして、右認定事実によると、検定基準に照らし正確性を欠くものというべく、右修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(整理番号重15)―内閲本二四九頁さし絵

(1)  本件内閲本にさし絵として掲げた新聞の写真の説明文「満州事変起こる。関東軍は自ら南満州鉄道を爆破して、これを国民政府の行為として発表し、それを口実に攻撃を開始した。当時の新聞はこの軍の言い分をそのまま報じた。」に対し、文部大臣は、右さし絵と本文は不要に重複しており、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、〈証拠〉によると、前記写真に付された説明文は、本文の「満州事変一九三一年(昭和六年)、関東軍は自ら柳条溝(りゆうじようこう)で南満州鉄道を爆破して、満州事変を引き起し、」との記述と不要に重複していることが認められ、他にこれに反する証拠はない。そして、右事実によると、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるというべく、右修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(整理番号重17)―内閲本二六六頁脚注

(1)  本件内閲本の「(脚注①)新しい歴史教科書では、戦前の歴史教科書の編修方針が根本的に改められた。こどもたちははじめて神代の説話からではなく、石器時代から始まる日本の歴史を学ぶこととなつた。」との記述に対し、文部大臣は表現が冗長で教科書として適切でなく、検定基準に照らし表記・表現が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、前示乙第一三号証によりこれを通読すると、前記述は表現がやや冗長であるとのそしりを免れえないものと認められるので、右修正意見は相当である。

(2)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(整理番号重19)―内閲本二二二、二三三、二七四および二七六頁の各写真

(1)  本件内閲本にさし絵として掲げられた「普通選挙法要求運動」、「治安維持法の制定に反対する民衆」、「再軍備に反対する人々」および「原水爆禁止世界大会(一九六一年の第七回大会)」と題する各写真に対し、文部大臣は、右写真四枚はいずれも大衆運動に関するものであり、同一傾向の内容のものが多過ぎると認められ、組織・配列の点から適切でなく、検定基準に照らし組織・配列・分量が不適切であるとしたことは当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右検定意見の当否について考えるに、〈証拠〉によると、前記写真はいずれも大衆運動に関するものであり、教科書の僅か五〇頁の間にしては同一傾向の内容のものが多過ぎる上に、二七四頁の写真「再軍備に反対する人々」は昭和三七年度検定の整理番号283で指摘された問題(同箇所についての前記判断説示参照)のあるものであつて、組織・配列の適切でないことが認められ、他にこれに反する証拠はない。そして、右認定事実によると、検定基準に照らし組織・配列・分量の不適切というべく、右修正意見は相当である。

(3)  よつて、文部大臣が右修正意見を告知したことには原告主張の違法はない。

(五) 以上のとおりであるから、昭和三八年度原稿整理番号368912、同内閲本の整理番号重238の各修正意見は不当であり、その余についてはいずれも各修正意見は相当であつて、これに基づく文部大臣の条件指示ないしは修正意見告知には原告主張の違法はない。

第五  損害賠償義務

一  昭和三七年度検定

1同年度検定において記述が不適切であるとして指摘された事項のうち、整理番号6293188215264281の六箇所はそれぞれA意見、同124207216236286の五箇所はそれぞれB意見を付されたものであるが、以上はいずれも右検定意見を付したことが不当であること前記判示のとおりである。

ところで、教科書検定における合否の判定は、前記のとおり(第四の二)、審議会の内規別表3に定めた配点から欠陥箇所に応じて減点して得た第一から第九項目までの各評点の合計が八〇〇点以上となるもの、または同表第一〇項目(創意工夫)の評点を加算して八〇〇点以上となるものが合格とされるのであるが、本件原稿は総評点(創意工夫を含む。)が七八四点にとどまつたため不合格とされたのである。

評定記号

項目別配点に

対する割合

項目点の頁数に

対する割合

項目ごとの

減点累計

10割

0.1未満

0―33

9

0.1以上0.3未満

34―100

8

0.3以上0.5未満

101―168

7

0.5以上0.7未満

169―234

6

0.7以上0.9未満

235―302

5

0.9以上0.11未満

303―369

×

0

0.11以上

370―

2次に、本件原稿につき前示一一箇所の不当に検定意見を付された部分がなかつたならば本件原稿が検定に合格しえたか否かについて判断する。

(一) 評定記号は、各項目ごとの累計減点数を教科書原稿の総頁数(昭和三七年度原稿は前示乙第一一号証によると口絵・目次・序論を含めて三三六頁である。)をもつて、除し、その割合によつて決定されることは既に認定のとおりであるが、その具体的数値は、証人渡辺実の証言と弁論の全趣旨を併せると次表のとおりであることが認められ、これに反する証拠はない。

(二) 検定の合否に影響するのは原則としてA意見に限られることは既に認定したところであるが、本件検定(審議会)の各項目ごとの減点数とA意見の数を対比してA意見一個当りの平均減点数を算出してみると(第四の二の3掲示の表参照)、

(1) 正確性では、本件検定(審議会)の評定記号、不合格理由のA意見数が一二六個であるから前記(一)の表により平均減点数は、

最小の割合のとき

303÷126=2.4(小数点2位以下切捨)

最大の割合のとき

369÷126=2.9(同上)

となり、最少の割合の場合2.4点であり、最大の割合の場合に2.9点である。

(2) 内容の選択では、本件検定(審議会)の評定記号△、不合格理由のA意見数が二三個であるから、前記同様の方法により平均減点数は、

最小の割合のとき

235÷23=10.2(小数点2位以下切捨)

最大の割合のとき

302÷23=13.1(同上)

となり、最少の割合の場合10.2点であり、最大の割合の場合に13.1点である。

(3) 表記・表現では本件検定(審議会)の評定記号、不合格理由のA意見が一五個であるから、前記同様の方法により平均減点数は、

最小の割合のとき

101÷15=6.7(小数点2位以下切捨)

最大の割合のとき

168÷15=11.2(同上)

となり、最大の割合の場合6.7点であり、最大の割合の場合に11.2点である。

(三) さらに、本件検定(審議会)の各項目ごとの減点数とA意見の数を対比して、A意見一個当りの平均減点数を算出してみると(第四の二の3掲示の表参照)、正確性の減点九〇点、A意見の数一二六個であるから平均減点数は0.7となり、内容の選択は減点五六点、A意見の数二三個であるから平均減点数は2.4となり、表記・表現の減点三二点、A意見の数一五個であるから平均減点数は2.1となるのである。

(四) 前叙の(一)ないし(三)の事実に既に認定した各事実および証人渡辺実の証言ならびに弁論の全趣旨を総合して推計してみると、本件検定においてA意見の欠陥箇所として指摘されたものの減点数はその一個につき、正確性では三点、内容の選択では一三点、表記・表現では一一点をそれぞれこえることはないものと推認するのが相当である。

ところで、不当に不合格理由とされた前記減点分を是正する方法としては、各項目の減点累計数から不当とされた減点分を控除し、その結果を原稿総頁数で除することにより項目点の頁数に対する割合を算出し、それを前示2(一)掲記の一覧表に当てはめてみればよい。これを式で表わすと次のとおりとなる。

不合格理由箇所の減点累計a1+a2+a3……+an(nは各項目のA意見数)

不当とされた不合格理由の減点累計

A1+A2+A3……An(nは違法とされたA意見数)

で表わすと

是正すべき評定記号の基礎となる項目点の頁数に対する割合は

すなわち

となるので、そのうち

を実際に計算してみると、不当とされた指摘箇所のうち

(1) 正確性に属するものは整理番号62215281であり、減点すべき点数は各個につき三点をこえないこと前記のとおりであるから、合計してもせいぜい九点をこえず、これを右式に当てはめると

(小数点4位以下切捨

をこえないこととなる。

(2) 内容の選択に属するものは整理番号264で、その減点すべき点数は一三点をこえないこと前記のとおりであるから、これを右式に当てはめると

(小数点4位以下切捨)

をこえないこととなる。

(3) 表記・表現に属するものは整理番号93188であり、減点すべき点数は各個につき一一点をこえないこと前記のとおりであるから、合計してもせいぜい二二点をこえず、これを右式に当てはめると

(小数点4位以下切捨

をこえないこととなる。

以上の結果に徴すると、右不当減点分の割合はきわめて些小であつて、これを控除してもしなくても、これが評定記号の基礎たる減点割合にはほとんど関係がなく、したがつて、右不合格理由の不当指摘、つまり不当減点の事実はこれがために評定記号の修正、ひいては本件検定不合格処分への影響はないものとして取扱うことのできる程度にとどまるものと考えられる。

(五) もつとも、各項目の評点がきわめてボーダーライン(各評定記号の区分すれすれの評定をさす・以下同じ。)に近かつた場合、例えば極端な事例としてごく僅少な点差で本件検定(審議会)の評定記号に決定されたような場合を想定すると、前記のごとく不当にA意見の付された正確性、内容の選択および表記・表現の各項目では、それぞれ一段階上位の評定記号となりうる可能性、つまり正確性についてはから△へ(項目の評点は一八点増加する。)、内容の選択については△からへ(項目の評点は一四点増加する。)、表記・表現についてはから○へ(項目の評点は一六点増加する。)繰りあげられる場合がないわけではない。

しかしながら、他方、評点による評定記号の決定においてボーダーラインにあるとき、各項目ごとのB意見(欠陥B)の数が多数の場合はこれを減点の対象として斟酌し、その評定記号を決定するというのが検定実務であることは既に認定したとおりであり、これは合理的なものとして是認されうるところ、その限度は原稿総頁数三〇〇頁程度のときB意見を付された箇所が各項目に三〇ないし四〇箇所にも及ぶような場合であるとされていることも先に認定のとおりである。

そして、昭和三七年度の本件原稿に対する検定において付されたB意見(証人渡辺実の証言によると、その殆んどが「欠陥B」であることが認められる。)の数は、正確性について三五箇所、内容の選択について二〇箇所、表記・表現について四八箇所であるが、そのうち内容の選択について整理番号207の一箇所、表記・表現について整理番号124236286計三箇所は前記のとおりこれにB意見を付したことが不当なものであるから、これを控除すると、内容の選択については一九箇所、表記・表現については四五箇所のB意見が付されたこととなる。

したがつて、本件検定において、右不当減点の是正によりかりにボーダーライン近くの線で一段階上位の評定記号に繰りあがることがあつたとしても、本件原稿の場合、内容の選択は別として、前記数にのぼるB意見の付されている正確性と表記・表現の両項目ではこの点を考慮に入れてその評定記号を決定すべき場合に該当するから」これにより、結局、本件検定の決定した評定記号へ繰りさげられる可能性が非常に強いものと推認されるのである。そして、たとえ、内容の選択において一段階上位の評定記号に繰りあげられることがあつたとしても、同項目の評点が一四点増加するにとどまり、いまだ本件検定の合格ラインである八〇〇点にはなお不足することが明らかである。

してみると、右の点は本件不合格処分には影響を及ぼさないものというべきである。

(六) なお、試みに、各評定記号ごとの減点累計数値の中間値をとつて比較した場合、昭和三七年度検定の正確性、内容の選択ならびに表記・表現の各項目においてそれぞれ一段階上位の評定記号へ繰りあがるためには六七ないし六八点だけ減点数が低減しなければならないことが計算上明白である(例えば、正確性についての中間値三三六点と段階上位の△の中間値二六八点の差は六八点である。)。

右試算に徴すると、前記のごとく正確性につき不当減点数が九点、内容の選択について同じく一三点、表記・表現について同じく二二点をそれぞれこえることはないのであるから、この方法によつても前記不当減点のために評定記号の修正を要するまでには至らず、ひいては本件検定の不合格処分の結論に影響するような問題にも至らないのである。

3叙上のごとく、昭和三七年度検定において文部大臣が不当に不合格理由とし、ひいては不当に減点したことの瑕疵も、結局は右検定の不合格処分そのものの結論を左右する程度のものと認めるには足りず、他に不合格処分そのものに影響を与えることになるような事由の立証もない。したがつて、同年度検定不合格処分が違法であるとする原告主張は理由がない(そこで、この点に関する文部大臣らの過失を論ずるまでもない。)。

二  昭和三八年度検定

1  本件原稿は同年度の検定において条件付合格となり、文部省当局より条件指示がなされ、さらに、その後提出された内閲本について修正意見が付されたこと、これらのうち、昭和三八年度原稿の整理番号368912、同内閲本の整理番号重238にそれぞれ付されたB意見はいずれも不当であること前記認定のとおりである。

2  そこで、右不当な条件指示ならびに修正意見の告知が違法であるかどうかについて考える。

文部大臣が教科書検定の実施につきかなりの裁量権を有することは被告主張のとおりであるが、反面、教科書検定はこれに関する前記諸法令に従い、検定基準に則して客観的に実施されてこそ検定権者である文部大臣らの恣意的判断を排除し、その適正かつ公正な運用を期待しうるのである。したがつて、文部大臣は右裁量権も、結局はその範囲内においてこれを認めうるに過ぎないのであり、これを逸脱した検定処分はたんに不当であるにとどまらず、違法性を帯びるものと解すべきところ、文部大臣の付した前記整理番号368912同重238に対するそれぞれの条件指示ないしは修正意見が検定基準に照らし不当であること既述のとおりであるから、この点に関する文部大臣の右条件指示ならびに修正意見の告知はいずれも違法といわざるをえない。

3  ところで、被告は、右条件指示ないしは修正意見の告知が違法であつても、この点につき原告が異議をとどめず任意に修正に応じたのであるから、これによりその違法性は阻却されると主張するけれども、前示乙第一二、第一三号証および原告本人尋問の結果によれば、右違法な条件指示ないしは修正意見の告知によつて、原告が、本件原稿が検定に合格し、教科書として採択されるためにやむなく不本意ながら同原稿記述を原告主張のように修正したことが認められ、他にこれに反する証拠はないから、被告の右主張は理由がない。

三原告は長年日本史の研究に従事し、高等学校用教科書として「新日本史」を初版から四訂版まで執筆してきたが、その五訂版(昭和三九年度より使用の予定)として三省堂を通じて本件検定申請したところ、昭和三七年度検定において不合格となり、昭和三八年度検定において条件付合格となつたのである。そして、昭和三八年度検定において前記違法な条件指示および修正意見の告知により、原告は心ならずも原稿記述の修正を余儀なくされたが、原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨によると、これにより原告の被つた精神的苦痛は金一〇〇、〇〇〇円をもつて慰藉するのが相当であると認める。

四教科書検定は、被告国の機関である文部大臣がその権限に基づきこれを実施するものであるが、文部大臣ならびにその職務上の補助者である文部事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局教科書課長諸沢正道、同局審議官妹尾茂喜および同課教科書調査官渡辺実らは、本件教科書検定において前記違法な条件指示および修正意見告知についてそれぞれ関与したものであり(この点は当事者間に争いがない。)、かつ、本件各証拠によれば同人らはその点について少なくとも過失があつたものと認められ、原告はこれにより右損害を被つたものであるから、被告国はその公務員である同人らによる前記損害を賠償すべき義務がある。

第六  結論

叙上の次第で、被告は原告に対し金一〇〇、〇〇〇円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和四〇年六月一九日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるので、原告の本訴請求のうち右限度で認容し、その余は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文を適用し、仮執行の宣言は本件については相当でないのでこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(高津環 牧山市治 上田豊三)

(別紙)

昭和三七年度検定におけるA・B意の区分表

整理番号

A・B意見

必要条件

証拠(乙号証)

1

A

正確性

四九の五

2

B

使用上の便宜等

四八の二

3

正確性

4

B

使用上の便宜等

5

表記・表現

6

A

正確性

四九の七

7

B

四八の二

8

9

A

使用上の便宜等

四九の三

10

B

四九の五

11

表記・表現

四七の二

弁論の全趣旨

12

内容の選択

四七の二

五四の二

13

表記・表現

四八の二

14

B

表記・表現

四九の五

15

A

正確性

四八の二

16

B

表記・表現

17

18

A

正確性

四九の五

19

B

四八の二

20

内容の選択

四七の二

五四の二

21

A

造本

四九の五

22

正確性

23

B

四八の二

24

四七の二

五三の三

25

組織・配列・分量

四八の二

26

A

正確性

四七の二

五四の二

27

B

正確性

四八の二

28

B

表記・表現

四八の二

29

A

30

B

正確性

四七の二

五四の二

31

A

四八の二

32

B

表記・表現

33

内容の選択

34

表記・表現

四九の五

35

A

正確性

四八の二

36

B

37

38

組織・配列・分量

39

A

正確性

40

41

四九の五

42

B

表記・表現

四八の二

43

内容の程度等

44

A

正確性

45

46

四九の五

47

造本

四九の七

48

B

表記・表現

四八の二

49

正確性

50

A

内容の選択

51

52

正確性

53

B

内容の程度等

四八の二

54

A

正確性

55

B

内容の選択

56

組織・配列・分量

57

正確性

58

59

A

四九の三

60

B

組織・配列・分量

四八の二

61

正確性

四七の二

五三の三

62

A

四八の二

63

B

組織・配列・分量

64

A

正確性

四九の五

65

B

組織・配列・分量

四八の二

66

A

正確性

四九の三

〃  五

67

四八の二

68

B

使用上の便宜等

69

使用上の便宜等

四八の二

70

A

正確性

71

B

72

内容の選択

四七の二

五四の二

73

内容の程度等

四八の二

74

使用上の便宜等

75

A

内容の程度等

四九の三

76

B

表記・表現

四八の二

77

A

正確性

四九の三

〃  五

78

四八の二

79

四九の五

80

B

表記・表現

四八の二

81

82

A

正確性

83

84

四九の七

85

四八の二

86

B

87

A

表記・表現

四九の三

88

B

四八の二

89

A

正確性

90

表記・表現

91

B

92

A

正確性

93

表記・表現

94

正確性

95

表記・表現

96

四九の三

97

正確性

四八の二

98

B

表記・表現

99

A

正確性

四七の二

弁論の全趣旨

100

B

表記・表現

四八の二

101

A

正確性

四七の二

弁論の全趣旨

102

四八の二

103

B

104

A

105

B

組織・配列・分量

106

表記・表現

107

正確性

108

内容の選択

109

表記・表現

110

A

正確性

111

組織・配列・分量

112

正確性

四七の二

五四の二

113

B

組織・配列・分量

四八の二

114

115

A

表記・表現

116

A

正確性

117

四七の二

弁論の全趣旨

118

四八の二

119

B

内容の選択

120

正確性

四七の二

弁論の全趣旨

121

A

組織・配列・分量

四八の二

122

B

使用上の便宜等

123

A

表記・表現

四九の七

124

B

四八の二

125

126

内容の選択

127

A

正確性

128

B

組織・配列・分量

129

A

正確性

130

B

表記・表現

131

正確性

132

四九の五

133

表記・表現

四八の二

134

内容の選択

135

内容の程度等

136

A

内容の選択

四七の二

四九の五

137

四七の二

五四の二

138

B

内容の選択

四七の二

五六の二

139

表記・表現

四八の二

140

141

A

組織・配列・分量

四九の三

142

正確性

四九の五

143

四八の二

144

B

四七の二

五四の二

145

A

内容の選択

四七の二

渡辺証言

146

正確性

四八の二

147

B

内容の程度等

四八の二

148

組織・配列・分量

149

A

正確性

150

内容の選択

151

B

表記・表現

152

A

正確性

153

四七の二

渡辺証言

154

四八の二

155

内容の選択

156

正確性

157

B

四九の三

158

A

四八の二

159

160

B

正確性

四九の五

161

表記・表現

四八の二

162

A

内容の選択

163

正確性

164

四九の七

165

B

表記・表現

四八の二

166

167

A

正確性

四九の三

168

四八の二

169

四九の七

170

四八の二

171

B

172

A

正確性

四九の三

173

四八の二

174

175

176

177

178

179

B

表記・表現

180

A

組織・分量・配列

181

内容の選択

四七の二

渡辺証言

182

.正確性

四九の五

183

B

組織・配列・分量

四八の二

184

A

正確性

185

186

組織・配列・分量

187

正確性

188

表記・表現

189

B

190

A

正確性

四七の二

渡辺証言

191

B

表記・表現

四八の二

192

A

正確性

193

B

194

A

195

B

内容の選択

196

A

表記・表現

四九の三

197

A

正確性

四九の五

198

B

表記・表現

四八の二

199

200

A

内容の選択

四九の三

201

正確性

四八の二

202

203

内容の選択

四七の二

渡辺証言

204

A

正確性

四八の二

205

内容の選択

206

正確性

207

B

内容の選択

208

A

209

210

造本

四九の三

〃  七

211

組織・配列・分量

四九の三

212

B

四八の二

213

表記・表現

214

A

215

正確性

216

B

組織・配列・分量

217

A

四九の三

218

四八の二

219

四九の三

220

正確性

四八の二

221

222

A

正確性

四八の二

223

224

B

225

A

226

227

B

四七の二

五六の二

228

内容の選択

四七の二

渡辺証言

229

A

正確性

四八の二

230

組織・配列・分量

231

正確性

232

B

表記・表現

233

234

A

正確性

235

B

236

表記・表現

237

A

正確性

238

239

240

内容の程度等

四九の三

241

組織・配列・分量

242

B

内容の程度等

四八の二

243

A

正確性

四七の二

渡辺証言

244

組織・配列・分量

四九の三

245

正確性

四七の二

渡辺証言

246

A

正確性

四七の二

渡辺証言

247

B

内容の程度等

四八の二

248

A

組織・配列・分量

四九の三

249

B

表記・表現

四八の二

250

正確性

251

A

表記・表現

252

B

内容の選択

253

A

四七の二

渡辺証言

254

B

表記・表現

四八の二

255

256

A

257

正確性

258

内容の選択

259

表記・表現

260

B

内容の選択

261

A

正確性

262

内容の選択

四七の二

渡辺証言

263

四八の二

264

265

266

四七の二

渡辺証言

267

正確性

四八の二

268

四九の三

269

270

B

表記・表現

四八の二

271

B

使用上の便宜等

四八の二

272

A

内容の程度等

273

B

正確性

274

内容の程度等

275

表記・表現

276

A

277

正確性

278

B

内容の選択

279

A

正確性

280

B

281

A

正確性

四七の二

渡辺証言

282

B

表記・表現

四八の二

283

内容の選択

284

A

285

B

表記・表現

286

287

正確性

288

組織・配列・分量

四七の二

渡辺証言

289

内容の選択

四八の二

290

表記・表現

291

A

内容の選択

292

正確性

293

四九の七

294

295

造本

296

A

正確性

四九の三

297

B

内容の選択

四七の二

五四の二

298

A

正確性

四九の三

299

四八の二

300

B

内容の選択

301

A

正確性

302

303

304

305

使用上の便宜等

四九の三

306

正確性

四八の二

307

308

309

使用上の便宜等

310

正確性

311

四九の七

312

A

正確性

四八の二

313

四九の三

314

使用上の便宜等

四八の二

315

316

正確性

317

318

319

四九の七

320

321

四九の三

322

B

四八の二

323

以上

目録(一)〜(四)〈省略〉

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